前川佐美雄「嬉しくて」原始よりの本能がその心情を理解する

今を狂気の如くに

今を狂気の如くに君が梅雨の夜をひき弾けばピアノ海より深し(前川佐美雄)

短歌新聞社『捜神』
(野極(梅雨五十吟))より

同じ時空を生きて恋しくもこれを夢の如くとしておいでなのか。
あるいは、伴に「海深」くあられるのか。

いずれであっても、眼底に悲泣をたぎらせておいでのごようすに見える。

思い過ごしか。

思い過ごしではない。

妻の病やうやく癒ゆる

妻の病やうやく癒ゆる嬉しくて手を握りやりぬ初めてならし(前川佐美雄)

同より

やはり、眼底に悲泣をたぎらせて見えたのは、思い過ごしではなかった。

病に身も細り心も萎えるのは、<わたし>もまた、同じであった。

今を狂気の如くに君が梅雨の夜をひき弾けばピアノ海より深し(前川佐美雄)

これが実景か心象風景かはわからない。
が、<わたし>は、「君」の「狂気」を、胸の底にしずかに沈めるのである。

理性と感情の不均衡にあるを、「狂気」とも覚えて、これを、「ピアノ」の音色となす。

前川佐美雄「嬉しくて」原始よりの本能がその心情を理解する

「海より深」くまで病あることに、からだじゅうが咽ぶ。
<わたし>もまた、「ピアノ」になった。

「君」の「病」に<わたし>が常に伴走していたであろう半生に、この式守もまた、咽ぶ。
わたくし式守もまた、「ピアノ」になった。

梅雨ふかく或る夜どしやぶりの雨のなか何を狂気の涼しき口笛(前川佐美雄)

同より

今日も降る梅雨のあめ

今日も降る梅雨のあめ善根のみなりや笠あかき茸庭に生えつぐ(前川佐美雄)

同より

<わたし>は、「笠あかき茸」に、おどろきを持つ。

雨は、人間に、あだなすばかりではないのである。

この「庭」のある家庭で、<わたし>は、日々を、たとえば「君」と食卓に向き合って、憂さも楽しさも分け合ったに違いない。

退屈を覚えることなどなかったのではないか。
でなければ「笠あかき茸」に接近できまい。

「狂気」を持て余すことなどもとよりなかったであろう。

前川佐美雄「嬉しくて」原始よりの本能がその心情を理解する

どれだけ誇れる人生を歩んだ。
寸毫の功利もない。

美しい

嬉しくて

ここで、この一首を、読み返してみる。

今日も降る梅雨のあめ善根のみなりや笠あかき茸庭に生えつぐ(前川佐美雄)

「笠あかき茸」が、梅雨に、光芒をつらぬいた。

そして、この一首も。

妻の病やうやく癒ゆる嬉しくて手を握りやりぬ初めてならし(前川佐美雄)

人間は、涙を見せ合えば、他愛なく一つに結ばれるものらしい。

前川佐美雄「嬉しくて」原始よりの本能がその心情を理解する

「嬉しくて」と。
短歌は、こんな平凡な感情語一つに、人間の美しさを映しだせるのである。

短歌に、突兀と出現した「嬉しくて」を、わたくし式守は、あたかも原始よりの本能で獲得したような体感を持てたのである。
今になって初めて習った日本語のように読めたのである。

唐突に勝海舟

唐突に

勝海舟の若い冬は、貧しく、また、寒い中をきっとおなかもすかせていただろう。

勉学に励みたいが、しかし、書物を買えるだけの金がない。
父に病があった。勉学に時間をとれない。

下げたくない頭を人に下げて書物を借りて、これを、寝食を惜しんで筆写した。

まったく唐突に勝海舟であるが

時の流れの中で、人は、受難を避けられない。

勝海舟は若い冬を耐えていた。

そして

くだもののメロンを切りぬ冬の日のくだものなれど内(うち)暗からず(前川佐美雄)

同(新緑)より

わたくし式守は、こんなメロン1個の短歌に、生きようとする人の美しさは、過酷な冬の時代にあっても、やはり容易に滅びないと思えた。それが何だか嬉しくもなった。

まあそれで勝海舟なんて登場した次第。

時に

人は、受難の中も、「内(うち)暗からず」生きられるのではないか、と。

前川佐美雄「嬉しくて」原始よりの本能がその心情を理解する

人は美しさを保てる

前川佐美雄は、生きている人々への報謝の心を、いつも、まことにいつもわたしに届けてくれる。

リンク

短歌新聞社は解散しました。(「短歌新聞」2011年10月号より)


Amazon:前川佐美雄『捜神』
参考リンク