前川佐美雄「われの後に椅子置かれたり」高精度なセンサーが

短歌の腕の前にハイスペックなセンサーがある

森の樹がみな手を垂れて夜(よ)となる時われの後に椅子置かれたり(前川佐美雄)

短歌新聞社『捜神』
(野極(梅雨五十吟))より

これ以上は先に行ったらたいへんだ。
と、前川佐美雄は思ったのか。

わたくし式守がそこを伴にした友人だったら、わが腕をとって、おい逃げるぞ、なんて。

何にしても、前川佐美雄は、ハイスペックなセンサーがおありなようで。

前川佐美雄を読んでいるとあっという間に時間がたつなあ

椅子にとらえられてしまう

この一首が、どんな読みが求められるものなのか、また、前川佐美雄は、この一首に、どんな動機があったのか、ここで、掘り下げはしない。

ただ、「手を垂れて」の直截な描写も、この短歌の魅力のポイントではあろうが、そこよりも、「置かれた」るとした「椅子」の存在感に、その感知に、わたくし式守はとらえられた。

とらえられるともう離してもらえない。

前川佐美雄「われの後に椅子置かれたり」高精度なセンサーが

わが膝よりも下を飛んでいた鳥

唐突に
短歌のおけいこをはじめます

<草稿>膝よりも下を飛ぶ鳥しばらくはともにすすんでナンタラカンタラ

なんでまたこの鳥は、何て名の鳥か知らないが、こんな低空飛行をしているんだ。
それもわざわざおいらのとなりを。

それはたまたまだった。
すぐどっかに消えた。

さて、わたくし式守の、この<草稿>であるが、一言、おもしろくない。
で、それはたとえばなぜなのよ、と。

一方の、前川佐美雄の「椅子」は、一言、われを脅かすのである。
人間であることを根本から揺さぶるではないか。

<草稿>の「鳥」では、人間であることを、根本から揺さぶる力はない。

わたしの短歌はなぜおもしろくならないのか

お手本を見直す。

森の樹がみな手を垂れて夜(よ)となる時われの後に椅子置かれたり

これである。
これが短歌なのである。

それは、たとえば、わたしの<草稿>の、ナンタラカンタラのところに、人として揺さぶられるものがある、ということなのではないか。

「森の樹がみな手を垂れて夜(よ)となる時 」の「椅子」は、この人生の岐路として、わが身に警戒を課してくる。

膝よりも下を飛ぶ鳥はどうよ

たまたまそこにいた程度ではない何かがあったのかも知れない。たとえば、わたしに、死を感知させるような何か、とか。

だが、わたしはそれを、要は、たまたまの出来事に着地させた。たまたまで終わらせてしまったのである。

「たまたま」に着地してしまったのであれば、これ以降は、もう詩は、生まれない、とか。

ハイスペックなセンサー

ハイスペックなセンサーさえあれば、前川佐美雄における「椅子」に相当するものを感知することも、さしあたり叶うのであるが、でも、ないな、そこまでのセンサー。

あったとしても、それを、短歌にするところまでいけないわなあ
前川佐美雄「われの後に椅子置かれたり」高精度なセンサーが

リンク

短歌新聞社は解散しました。(「短歌新聞」2011年10月号より)


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参考リンク