中根誠「裁判所の前の芝生を」心の正しいこの無敵の姿とは何

裁判所の前の芝生よ

裁判所の前の芝生を方形に区切れる道に従ふわれは(中根誠)

本阿弥書店『歌壇』
2017.11月号
「久寿万寿」より

中根誠「裁判所の前の芝生を」心の正しいこの無敵の姿とは何

いかにも「裁判所の前」らしい「前」ではないか。
「方形に区切れる道」なんてあるのか。

「われ」は、この道に従った。
「裁判所の前」だからか。でもないのか。
そうしないといけない気になるかなあと。裁判所の前だよ、裁判所の前。

暗示がかかってしまうとか。
違うな。
違うと思う。

この連作「久寿万寿」で、この一首を詠む前に、既に次の二首を記憶にとどめていた。

フォレスタの姿勢正しき歌を聴くみんな正しくなる愛の歌(中根誠)

不整脈の妻の脈拍はかるとき改まりたる夫婦の対座(同)

自律の人格を読んだ

みんな正しくなる愛の歌

フォレスタの姿勢正しき歌を聴くみんな正しくなる愛の歌(中根誠)

中根誠「裁判所の前の芝生を」心の正しいこの無敵の姿とは何

「フォレスタ」とは、それが名であるコーラスグループのことらしい。
調べた。
フォレスタのメンバーとファンの方にたいへん失礼とは存じますが、知らなかった。

たしかに「愛」を覚えられた。
(ほんとうです)

「みんな正しくなる」に驚く。それも「愛の歌」なんだそうな。
この下句の措辞は、配合が、簡素にして美妙ではないか。

にしても気高いお方だ

気高い歳の重ね方をされたから正しくもなれるのか。
正しく生きてこられたから気高くも見える現在のお姿なのか。

上句「フォレスタの姿勢正しき歌」の歌で、読者たるわたしも、自然に正しくなれた

改まりたる夫婦の対座

不整脈の妻の脈拍はかるとき改まりたる夫婦の対座(中根誠)

中根誠「裁判所の前の芝生を」心の正しいこの無敵の姿とは何

不整脈であれば、動悸や息切れがあろうかと。そこに立ち入ること無礼であろうことは百も承知で、胸の痛みはいかほどか。
心よりお見舞いを申し上げます。

しかし、<わたし>は、動じてなどいない。
妻もまた堂々たる患者ぶりである。

されば正しく診断もできようか。正しく、である。

夫のあり方に
妻の不安は
軽減される

わたしは妻にこうはいかないのである。
厳粛な気持ちになった。

ご夫婦は、ご夫婦の人生の不整脈という暗点に、姿勢を正しくしておられる。

この一首では、「改まりたる夫婦の対座」と表現されたが、この「対座」は、これまで幾星霜とお互いを呻吟してきた歴史がうかがえないか。
昨日や今日の「対座」ではない。

お互いがお互いをなくてはならない存在にしてのこの落ち着きよう。

わたしまで背筋がしゃんとなる

短歌もまた文学であるが

よって、再読では、どの一首も、余白に、広大な時空が拡がっている気になる。

平凡極まる中に成功を収めた夫婦の姿は、わたしには、やはり尊いものを覚えないではいられない。

この連作「久寿万寿」のお姿は、人一人の人生をいきいきと活写した傑作であることを、わたしは、疑うことができない。

短歌は、時に、自分の人生に見習うべき姿を見せることがある。

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