築地正子「名も知らずして」「あはれいたはる」独自の行路

名を知らずして

紫の花咲かせずばその草の名も知らずしてこの世過ぎけむ(築地正子)

河出書房新社
『【同時代】としての女性短歌』
「路」より

築地正子「名も知らずして」「あはれいたはる」独自の行路

ただの雑草だから「紫の花咲かせず」なのか。
「紫の花咲かせ」る遺伝子はあるのに「咲かせず」なのか。

いずれであっても、人は、「その草の名を知」ることはない。知ろうとしない。
草を、その名とセットで記憶するには、花を咲かせてもらうしかない。

何やら多くの人間の人生もこれと同じ、とのベタな解釈をしたくもなるが、そういうことなのか。
わからない。
わからないが、だったとしても、この一首を、人間の、あきらめの歌だとわたくし式守には読めない。

四句目とのつながり具合で、結句の詠嘆に、そのようなあきらめとは真逆の、<わたし>が、人生の、その先への、また新たな一歩を進もうとしておいでの詠嘆を覚えられたからである。

名の有無

山並みの奥の奥まで路ありて路あるところ空鑵ころがる(築地正子)

『同』
「同」より

築地正子「名も知らずして」「あはれいたはる」独自の行路

路に缶がころがっているようだが、左右をみまわせば、草の領域を侵してもいようか。

マナーの問題については、ここでは、あえて踏み込まない。
愚行としか言いようがないではないか。

が、名の付いていない草はこんな扱いを受ける、そこを無視することはできない。
名の付く草であれば、そこに、人は、缶をこうも投げない。こうも蹴らないではないか。

それでいて、缶には、ちゃんと名があるのである。商品名という歴とした名が。
この商品の名は、これを穢しても平気でいられるらしい。

ここを、こう言ってしまうと、図式的に過ぎるきらいがあるが、名があっても恥ずべき者があれば、名がないままに虐げらる者もあるわけだ。

あはれいたはる

腎臓も角膜も血も献じ得ぬこの老身をあはれいたはる(築地正子)

『同』
「同」より

築地正子「名も知らずして」「あはれいたはる」独自の行路

その名も知られぬままに老いるのは、人さまのお役に立てないのか。が、行き倒れて、土となるわけにはいかない。

老いるとは悲しくも健気なのである。

ということを
最近
知りつつあるわたくし

生涯無名のままで終わるほかなく、そんな人生はまっぴらごめんだ、と考える若者は、今も少なくないであろうが、いつまでも悪夢から覚めない人生も少なくなかろう。

夢を持った以上は、死ぬまで持ったらいい、とは思うが、何だかどっちも危なっかしい。

無名の者に、無名の人生に、老いることに、見落としている何かがないか。そのあたりを探してみることを、人は、怠っていないか。

そのへんこの式守はどうなんだ

平凡に徹する

平凡に徹するもひとつ意志として山をよるべの月にかあらむ(築地正子)

『同』
「同」より

築地正子「名も知らずして」「あはれいたはる」独自の行路

平凡な外観ゆえの非凡はないのか。

あくせくと排他的に獲得したものではない。「平凡に徹する」ことで、この人生の高みに立っている姿はないのか。

そして、これは、<わたし>が、月を、そのように見上げての一首なのか。

ある。
そのような月はある、と思えるだけの人生を、幾人か見てきた。

ここをこう言ってしまうと観念的に過ぎるきらいあるが、山を昇る月のように。それは同じことの繰り返しなのに、人を必ず照らす人生はある。

平凡の美化ではない

「ひとつ意志として」おいでの、が、寸毫の功利もない。
月のような人生は、なに、ちょっとあたりを見わたせば容易に見つけられるものなのである。

身は蛍かな

ふるさとに鐘をならして老いゆくにありなれがたき身は蛍かな(築地正子)

『同』
「同」より

築地正子「名も知らずして」「あはれいたはる」独自の行路

年越しはふるさとなのか。今はふるさとにご隠居でらっしゃるのか。

鐘は除夜の鐘のことか。

除夜の鐘をついて、新たな年をまた重ねる(また老いる)が、その日々は難儀である、と。そのような歌意か。
わからない。
わからないが、ご自分を蛍である、と。

誰もがその名を知る蛍ではあるまい。専門家でもない者に、蛍の個体差は、カブトやクワガタのように識別できない。

そう名の知られぬ草のように

内にある心のようにさして燃えてはくれない光を、築地正子は、蛍と。そのような歌意か。
わからない。
わからないが、そのような蛍だったとしても、たった今、築地正子は短歌で、わたくし式守の人生を横切った。

そして、慰められた。

築地正子/月にも/蛍にも

築地正子「名も知らずして」「あはれいたはる」独自の行路

最初に引いた一首を、ここで改めて、読み返してみたい。

紫の花咲かせずばその草の名も知らずしてこの世過ぎけむ(築地正子)

「名も知らずしてこの世過ぎけむ」と。
このいやしくない<わたし>のたたずまいが目に溜まるのはなぜ。

なぜ?

名も知られぬ人々の中を、人は、今日も生きる。
わたくし式守は、築地正子の連作「路」を、人生論のように読んでしまった。それは、築地正子のご本意ではなないかも知れないが。

しかし

この人生は、月になれないか。老いてなお人を慰め得る蛍になれないか。築地正子のように。

最後に、この一首を、改めて引きたい。

腎臓も角膜も血も献じ得ぬこの老身をあはれいたはる(築地正子)

<わたし>は、その身を「あはれいたはる」と。それはただ健康管理を意味しているのかも知れないが。

しかし

わたくし式守は、この一首に、ご自分を蝕むようには生きてこなかった、築地正子独自の行路を見ないではいられないのである。

築地正子「名も知らずして」「あはれいたはる」独自の行路

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