
目 次
切り札がない

切り札を持ちて歩めるわれならず川の匂ひのこよいは著(しる)し(大西民子)
短歌新聞社
『石の舟』大西民子歌集
「花溢れゐき」抄
(花溢れゐき)より
「こよひ」の「川」は、悪臭が、ひどくただよっている、ということか。
そんなものは巡り合わせに過ぎない。
とは言わない。
歌人だからである。
歌人に、この人生の運不運への警戒が露骨に研がれると、川の悪臭も、このような詠嘆を帯びた短歌になるらしい。
銀の匙

いつとなくわれの纏へる影に似て敏(さと)く曇りを張る銀の匙(大西民子)
「無数の耳」抄
(陶の卵)より
「銀の匙」に、この身を、閉じ込められてしまった体感でもあったのか。
わたくし式守は、これを、次の一首と呼応して読む。
鉢の外に魚(うを)のはみ出(だ)しゐる童画はみ出(で)て尾鰭がそよぐ(大西民子)
「不文の掟」抄
(不文の掟)より
<わたし>に、境を破ることが、よくある。
まぼろしが見えてくるように
まぼろしばかり

目薬をさしてしばらく眼閉づまぼろしばかり見つつ過ぎむか(大西民子)
「花溢れゐき」抄
(化身)より
そうそう<わたし>には、「まぼろしばかり見つつ」のきらいが、たしかにあるのである。
仰ぎ見るステンドグラスいつの日もうなだれて使途の幾人(いくたり)歩む(大西民子)
「同」抄
(石の舟)より
「ステンドグラス」の世界の風が、<わたし>に「使途」を見せて、切実な苦を告げる。
遠近の正しき絵にて動き得ぬ人間も牛の群れも苦しき(大西民子)
「無数の耳」抄
(陶の卵)より
「遠近の正しき絵」と。
この世界を正確に認識すればするほどに、この苦は非現実ではないことが、容赦なく突きつけられるのである。
されば
ラッキーカードがないことは、この人生において、ただの個人感情に思えなくなってくる。
スペードの2

切り札を持ちて歩めるわれならず川の匂ひのこよいは著(しる)し(大西民子)
これは先頭に引いた一首。
スペードの2を引きしこと生涯の悲運のごとくながく忘れぬ(大西民子)
「花溢れゐき」抄
(化身)より
往時の追憶にことよせて、「札」は、このようなものになってしまった。
でも……
忘れられる日なんてくるのか
そうやすやすとくるものか
そんな生ぬるい苦ではあるまい
読者に非現実を生む

わたくし式守は、次の一首を、淫するほど読み返した。
みづからの呼び醒ましたる潮ざゐにゆれ出す壁画の中の破船も(大西民子)
「無数の耳」抄
(陶の卵)より
読み返したこといくたりか、今では、海上に暴風が吠えている。
耳から脳の中枢へ音響を生んだ。
短歌に水は、詠むも読むも、ただただ潺潺として流れるものではないのである。
されば、<わたし>も、わたくし式守も、「壁画」の中で、清き渚に足を洗う場面は想定できない。
現実と非現実の境

常、人生を疑い直していると、現実と非現実の境を極めてしまえるらしい。
顔よりも大き向日葵咲きゐたる背景のみが夜々還り来る(大西民子)
「無数の耳」抄
(陶の卵)より
「向日葵」はあたかも、目に非現実に映る。
事務室のガラス拭かれてゐながらに見ゆる枯れ野のまぶしくなりぬ(大西民子)
「花溢れゐき」抄
(化身)より
「まぶしくなりぬ」と。
このような現実も一方に存在していることを、大西民子は、短歌にすくいあげる。
現実であれば、これは、願い事が変形したようなものではない。
歌人は、いや、それは歌人ばかりではあるまい、遠くギリシャの時代にしてすでに、人は人々と人生の価値を見つけ合おうとしてきた。
それはまず神話からであった。
短歌は神話と対置していないが、大西民子という歌人の手による一価値は、次の一首に置けまいか。
咲き残るひなげしの白 地のひびき空のひびきにさとき花びら(大西民子)
「同」抄
(同)より
<わたし>は、天から地への久遠の光を、見ていないわけではないのである。

現実の対人性
人のためなし得ることの小さくて短き釘をわれは戸に打つ(大西民子)
「花溢れゐき」抄
(化身)より
この対人性の自覚は、そのさりげなさが、清涼に印象される。
大西民子は、深窓の花ではないのである。
その望まぬ潮流の中に安閑とばかりしていない。
しかし
地に撥ねし木の実の音もしづまりて還らぬわれを待つばかりなる(大西民子)
「同」抄
(花溢れゐき)より
早々と人生に晩鐘を告げているようではないか。
あくる日の職場に問へど夜の更けに降りゐし雨を知れる人無し(大西民子)
「同」抄
(石の船)より
自分だけ雨にたたられてしまう。
現実に還れば、残るのは、いっそう切実な迷いだけなのか。
塵事ここになし
