雨宮雅子「百日紅は咲き盛り」いかなる時も志を展べようと

緊迫した時間が経過する短歌

しんしんと百日紅は咲き盛り夏のまなかにとほき夏あり(雨宮雅子)

東京堂出版
『現代短歌の鑑賞事典』
馬場あき子【監修】

雨宮雅子・<秀歌選>
(『悲神』昭55)より

天地を畏む人がいる。
ほんとうにいるのである。

なんてすばらしい短歌だろう。

ご自分を人として凡愚たるを弁えて、今は傷だらけの時間を生きておいでなのに、その痛みさえ抱きしめておられる。

「夏のまなかにとほき夏」を感受してしまうのは、そのようなことではないのか。
それでもたしかな「百日紅」がここにあることに、雨宮雅子は、その目を離せなかった。

この一首を、わたくし式守は、そのように読む。

雨宮雅子「百日紅は咲き盛り」

われを悲しみたまふ神あり

百合の蘂(しべ)かすかにふるふこのあしたわれを悲しみたまふ神あり(雨宮雅子)

同(『悲神』昭55)より)

代表歌である。

映し出されているものがことごとくきれいであるが、これは、何の努力もしないで夢から醒めないことを虚飾しているようなものではない。

いかなる時も志を展べようとするにおける受難ではあるまいか。
それはあたかもさだめで……、

人生の危難や艱苦を
さまよっておいでだ

キリスト教において百合が特別の花であることは、よく知られていることなのかどうか、<わたし>は、聖母マリアの花を介して、「神」に、問題とされる存在であるを自認なさっておいでなのである。

悲しみたまふ、と

雨宮雅子「百日紅は咲き盛り」

夏のまなかにとほき夏あり

しんしんと百日紅は咲き盛り夏のまなかにとほき夏あり(雨宮雅子)

同(『悲神』昭55)より)

日ごとに大地が菁菁と萌える。
雨雲一つなき大地を蝉の声が灼く。

しかし、「百日紅」は、<わたし>を、「とほき夏」にしてしまうのである。

傷だらけの時間を生きておいでなのではないか。

これまでの志を
どう展(の)べようにも果たせない

されど、その痛みを抱きしめて生きて、ご自分の誤りをなぜるように失われた言葉を取り戻す。

わたくし式守は、この姿に、胸がズキリと痛むのをどうすることもできないでいる。

迷路から出られない

雨宮雅子「百日紅は咲き盛り」

激しき生を

竹と竹搏ちあふ音はいまさらに激しき生をわれに促(うなが)す(雨宮雅子)

(『熱月』(平5)より)

「百日紅」がなおまだ「とほき夏」にある生を生きれば、人生の外周は、こうもなるものなのか。

<わたし>の眉に自省の皺が彫り込まれる

やわかこのままに、との募る無念がある

されば

「さらに激しき」は、生命が消耗してしまうだけに着地することもあるまい。

されど

もうご十分ではありませんか。

が、などとは言えないのである、この気魄に。

ただただ一脈の気魄

雨宮雅子「百日紅は咲き盛り」

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