
目 次
霜柱
六十歳のわが靴先にしろがねの霜柱散る凛々(りり)として散る(木俣修)
短歌新聞社
『故園の霜』木俣修歌集
「去年今年」抄
(霜柱)より

これと似た実景を、わたしも、目にする朝がある。
霜柱なんてものを目にするのは、北国は別として、都市部では珍しくなってきた。
が、わたしは、マンションの清掃作業員。植え込みに霜柱を目にすることが少なくない。
雑草は、極寒の朝にもある。
植え込みに足を踏み入れる。
六十ではないが、けっこうな中高年になって、この一首にあるような霜柱に、敬虔な目と耳の感触を得たことが、わたしにもある。
あっ
となった。
この「あっ」を歌に詠めば、なるほど、こんな一首のような気がする
郷愁ではない
読み直してみよう。
六十歳のわが靴先にしろがねの霜柱散る凛々(りり)として散る(木俣修)
心理的変容を可能にしたのは、初句の「六十歳の」、ここでもう梃子がある。
郷愁ではない
なつかしいなあ、なんて成分が、霜柱に、ないでもない。
が、そんなことよりも、たかだか霜柱なんて、地上の細部に、これまでの人生に見えていなかった何かが見えた。
その何かとはたとえば何か。
凛々と
幼少時に霜柱があればここぞと踏み鳴らしていた
昏き葉桜
倦みやすきこころ悔しみこもる日の窓をおほいて昏き葉桜(木俣修)
短歌新聞社
『故園の霜』木俣修歌集
「みちのく」抄
(仙台)より

この青春の歌は美しい。
まだ何者でもない美しさがある。
戦後も高度経済成長期も、またバブル期も、若者は、時に「こもる」ことがあるのである。
窓はある。
よって、「昏き葉桜」を目にする。
が、これでいい。
これでいいと、「昏き葉桜」に、わたしは、説得される。
まだ未熟なのに、ギラギラと照りつける太陽に容易に明るい未来を描ける若者は、要は、浮かれているだけではないか。
されど
いつか知る。
外界に、それもとるにたりない細部に、たとえば霜柱に、目と耳が敬虔な実景を感得できることを。
ああ、
わたしにあったあの無益な時間よ。
しかし……、
意味はあった
