
目 次
標的とは
酸漿(ほおずき)のひとつひとつを指さしてあれはともし火 すべて標的(服部真里子)
本阿弥書店『行け広野へと』
(あれはともし火)より
酸漿と言えば、お盆に欠かせないものである。
墓や仏壇が赤く色づく。死者の霊を導くためである。
ちょっと戸惑う。
夙に知られていることだが、服部真里子は、キリスト教徒(プロテスタント)である。
酸漿は、ここに、たまたま登場しただけのものかも知れない。
されど、「標的」、これは、キリスト教を背景にしている、と考えてもよいか。
キリスト教を学ぶと、次のような趣旨が、よく目に留まる。
的?
と言うことは、的がたいせつなわけで、的って何よ、となると、それは神さまで、神さまに背を向けてはいけない、なんてことになるらしい。
その筋の人には、らしい、で申し訳ないのですが
八百万の神の神ではないのだ
読み返す。
酸漿(ほおずき)のひとつひとつを指さしてあれはともし火 すべて標的(服部真里子)
では、酸漿に、神が宿っていると?
ああ、なるほど
違う、違うぞ、それ
そうじゃない、そうじゃないんだ
神なるは | 標的 |
---|---|
酸漿の ひとつひとつ | NO |
酸漿なる ともし火 | YES |
したがって、いかにも日本的な(神道に見られるところの)八百万の神の神ではない。
ともし火があること。
あくまで一神教の神のことかと。
もっとも歌意が実は何であろうと、この一首の措辞と調べだけで短歌的感興は十分に得られようか
一方で「コピー用紙」に光が
王国の領土のようで誰ひとり拾えないコピー用紙に光(服部真里子)
本阿弥書店『行け広野へと』
(夜光)より

実景はいずこ。オフィスのコピーコーナーか。
それは一読してすぐはわからない。が、さしあたり「王国」について、これは、「神の国」のことかと。
『行け広野へと』を、福音を宣べている歌集との読み方をした者としては、「王国」が安易な措辞とは思えないのである。
つまり、もっともっとと踏み込むべき世界を詠んでいる、と思えた。
なぜ
拾えない?
拾わないのではない。
拾えないのである。
なぜよ。
なぜ?
神学上の生贄の、完全に聖なるものとしてのイエス・キリストなのだろう。
生贄の
キリスト?
オフィスにはコピーコーナーがあるものだ。
わたくしは、財務経理本部なるところで、四半世紀を、会計・税務に従事してきた。
現在は、夜間に、大きなオフィスビルの専有部で、清掃に従事している。
コピーコーナーはかなり鮮明にイメージできる。
現代は、コピー機は、コピーのためだけのマシンではない。
プリンターを兼ねている。パソコンから出力する方が主かも知れない。
このコピーコーナーは、反故になった紙が、散らかっている。クリップがぞんざいに扱われて放置されてもいようか。
あたかも人間の生産活動の生贄たちではないか。
などとの歌意を探らないでも、この一首の措辞と調べだけで短歌的感興は十分に得られようか
よって
王国とは?
オフィスになるかと。オフィスのコピーコーナーに。
ASKULあたりから取り寄せたコピー用紙の包みを破る。
新しい紙特有の、それは、清らかでまた爽かで、白という色に光沢(つや)がある。
ただし、それは、紙に対する人間のはじまりだけのようで
「酸漿」なる神と「コピー用紙」なる生贄

コピーコーナーは、暗黒と光明の見えざる境があるのである。
また紙は無駄になるのか。
なる。
なる、とも限らないが、オフィスに勤務する者がいかに紙一枚をたいせつにしないか、半世紀近くをオフィスに身を置いた者として、わたくし式守は、知り抜いている。
紙一枚を「標的」ともするはじまりはあった。
あったのであるが、やがて、コピー用紙は、人間たちの傲慢な罪に汚れる。
実景としても、反故になったミスプリの紙は、いかにも罪深い(それは人間たちの)姿ではないか。
だが、何の穢れもない新品のコピー用紙は、人間たちのために、あるいは人間たちの代わりに汚れてくれる、と読んでみるのはどうか。
すなわちコピー用紙をイエス・キリストと読んでみるのはどうか。
酸漿を「標的」とするのはまだいいのである。
が、それはたかだかコピー用紙の扱いなのに、人間は、自ら神なる「標的」を遠くして、しかし、背を向けることはできない拮抗のなかに身を置くこともあるのである。
自ら、であることで、拮抗はさらに拮抗を増す。
ここまで引いた二首を並べてみる。
コピー用紙は「誰ひとり拾えない」という考えに改めて至る。
酸漿(ほおずき)のひとつひとつを指さしてあれはともし火 すべて標的(服部真里子)
王国の領土のようで誰ひとり拾えないコピー用紙に光(同)