米川千嘉子「いかなる傷も吾になし」言葉の裏にある自己批判

少女へのまなざし

拒食症の少女は透くる草といふ草風なかに語れるものを(米川千嘉子)

河出書房新社『一夏』
(藤の曇天)より

拒食症とつながりを持たない人にこれがどれだけ賢明なあり方か、この一首で、米川千嘉子に絶大な敬意を捧げたい。

拒食症に苦しむ人が、この世は、少なくなくいる。
拒食症に苦しむ人に苦しむ人もまたいる。
そして、拒食症とつながりを持たない人も。

拒食症とつながりを持たない人 は、その少女に距離を置くしかないが、そこで、このように温かい心情でさえあればいい。

むろんこれはわたくし式守のただ一意見に過ぎないが。

米川千嘉子の歌集を通読すると、米川千嘉子の、「少女」を、このように眺める姿が随所に見られる。

米川千嘉子「いかなる傷も吾になし」言葉の裏にある自己批判

風なかに語れる

米川千嘉子「いかなる傷も吾になし」言葉の裏にある自己批判

早速、読み返す。

拒食症の少女は透くる草といふ草風なかに語れるものを(米川千嘉子)

「拒食症の少女は透くる」のである。

しかし、拒食症に苦しむ人に、そのからだは、力士よりも存在が目立つことがある。

拒食症のからだに、人はすぐ、目がゆく。
力士がいれば力士に目がゆくのと同じだ。

現にほれ、米川千嘉子も、目がいった。
そして、これを、短歌にしたではないか。

面白半分でないのはもちろんであるが、低俗な哀れみも、この短歌にはない。

拒食症の子は
人と食べられない

それを、「草といふ草風なかに語れるものを」と、米川千嘉子は、その心まこと温かく遠くから見守る。

学校というハードウェア

米川千嘉子「いかなる傷も吾になし」言葉の裏にある自己批判

東京も富士も見えぬ日学校はかぎりなき雨のひかりを落す(米川千嘉子)

砂子屋書房『夏空の櫂』
(霧の火山)より

この「学校」は、校舎だけではあるまい。体育館もある。校庭もある。

しかし、「雨のひかり」に、よほどそばにいないと目に見えない「学校」でもある。

学校は時に迷宮である

米川千嘉子は、教師だった。
そして、商いではない職場ともなると、こんな会議に出るらしい。

抗うつ剤にただに眠たき女生徒の心をめぐり会議続きぬ(米川千嘉子)


(校廊)より

学校なるハードウェアにおいて、ソフトウェアたる教師は、負荷がかかってしかたなかろう。

教師というソフトウェア

米川千嘉子「いかなる傷も吾になし」言葉の裏にある自己批判

鬱病の少女来ぬまま夏となる教室もまた鬱の子多く(米川千嘉子)

砂子屋書房『夏空の櫂』
(霧の火山)より

一読すると、統計資料を読み上げているスタイルだ。

しかし、米川千嘉子が、教師としてどれだけ職責を果たそうとなされていたか、この一首だけで評価できる。

生徒たちの心を個人別に把握しておられるのである

告白をしに来るなかれ吊られたるごときさびしき月球の窓(米川千嘉子)


(校廊)より

「来るなかれ」とはまた冷たい拒絶か。

違う。違う。
そうではない。

米川千嘉子は、教師として責任感が強かった。
「告白を」されたとて何ができる。

ご自分を咎めておられるのだ

しかし、この夜空の下に、「告白を」秘めた子たちはいるのである。

月球の窓よ

仕事のことを、ひいては「少女」のことを、頭から消せない。

ふかい思い

米川千嘉子「いかなる傷も吾になし」言葉の裏にある自己批判

誰の生にもかかはりたくなきわれを囲み初夏少女らのやはらかき傷(米川千嘉子)

砂子屋書房『夏空の櫂』
(霧の火山)より

梅雨もあがって初蝉を聞く。
空の色ははっきりと「初夏」だ。

「われを囲」む「少女ら」がいる。
目をふさいではいられないのである。

「少女ら」は「やはらかき傷」を見せてしまう

醒めてゐる少女の部分いたはりてやりたかり翼なき球打返(かへ)す(米川千嘉子)


(少年のマウス)より

「醒めてゐる」以上は、届いたのは「翼なき球」であるが、米川千嘉子は、これを「打返(かへ)す」ことを怠らなかった。

「醒めてゐる少女」は何を話したのか。
米川千嘉子は、「少女」ではまだうまく言葉にできい「部分」を、言葉にしてあげたのではないか。

当時既にして将来を嘱望されていた歌人ともなれば、そんなことは、造作もないことだったか、と言えば、そんな生ぬるい場面ではなかろう。

いたはりてやりたかり

寸時の思いがふかい。

人間への正しい負い目

米川千嘉子「いかなる傷も吾になし」言葉の裏にある自己批判

過酷なる一生徒の生を苦しめど職退(ひ)けばいかなる傷も吾(あ)になし(米川千嘉子)

河出書房新社『一夏』
(『海からの贈物』)より

安堵なされたか。
まあそれもあろう。

身勝手なものだ、とはとても思えない。

米川千嘉子もまだ若かった。
進退のやましさなどむしろこの先にいくらでも待っているのである。

米川千嘉子は……、

その人生の力不足を痛感して、少なくない挫折を覚えた。
その胸の小濁(ささごり)は、ここに、沈黙しか許さないのであった。

人生の契りでもないのを
「いかなる傷も
吾になし」との
正しい負い目を持った

米川千嘉子の短歌の凄味

米川千嘉子「いかなる傷も吾になし」言葉の裏にある自己批判

生徒らの笑みに太りてゆくわれか磨り減りてゆくわれかわからず(米川千嘉子)

砂子屋書房『夏空の櫂』
(少年のマウス)より

「生徒らの笑み」は、大人の、訓練された「笑み」ではあるまい。

天真の笑みもあろう。
しかしまた、それこそ鬱を誘引する、負荷のかかった笑みもある。

「太りてゆく」か「磨り減りてゆく」か、この結論を出せないのは、現在と未来に足がすくんでいる「生徒ら」にそれだけ接近したからではないのか。

されば、教師・米川千嘉子を、当時の少女たちは、たしかな敬慕をもって思い出していようか。

身のまわりに、心幾重を知るの難きを、米川千嘉子は、短歌で、これでもかと説いた。しかし、そこに、米川千嘉子は、世上に下手な言い訳でしかない短歌など一首ものこしていない。

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