古谷円「うすやみに丸椅子置かれ」まだ生きている価値がある

短歌に世界が働きかけてくれるものが

うすやみに丸椅子置かれ傷みたるミカンのようなわたしをのせる(古谷円)

KADOKAWA『短歌』
2018.8月号
(スペイン語圏)より

要は、「丸椅子」にすわった、というそれだけの話なのである。
どうも短歌とはそういうものらしい。

しかし……。

わたくし式守は、この短歌で、何かこう、<わたし>に世界が働きかけてくれるものがあるように映ったのであるが……。

あしたがまだある

「うすやみに」電気も点けていない。
「傷みたるミカンのよう」になるまで疲れているからか。
だが、「うすやみに丸椅子」は、「わたしを」支えてくれているのである。

それが、この一首内で、何だかアタリマエのことに思えなくて。

あしたがまだある

古谷円「うすやみに丸椅子置かれ」まだ生きている価値がある

この世界は、ちょっとやそっとで生きる価値を失わない。この一首を、わたしは、そのように読んでみたくなったのである。

炎天下

<草稿>どろどろの流体になる炎天下そこにもたれたガードレールで

唐突に
短歌のおけいこをはじめます

ここにある認識を、作者(わたくし式守であるが)が、持つこと自体はいい。

が、短歌という詩にするにおいて、拙速の感が拭い難く残る。

拙速とは、配慮するべきことを配慮しないで、考えが浅くなる、ということであるが。

そして<わたし>はどうなるのか

短歌のおけいこをつづけます

お手本を見直す。

うすやみに丸椅子置かれ傷みたるミカンのようなわたしをのせる

わたくし式守の<草稿>にはない、<わたし>をめぐる世界が、ある色彩をともなって迫ってくる。

式守の<草稿>では、炎天下にとにかく暑いらしいことは、わからないことはない。
が、<わたし>にとって、炎天下とは何。

「どろどろの流体になる」ならなるでもいい。
が、それほどまでに炎天下の「ガードレール」で、<わたし>の何が映し出されるんですか、ということだ。

白雲を見上げるしかなかった

屋外作業の仕事が多い。
たとえば夏、猛暑に適従できないことは、死の接近を意味する。

炎天下。
信号は赤。
空を見上げると、頭上に、白雲が動いていた。

ならば「ガードレール」より「白雲」をフォーカスしてみるべきなんじゃないのか。「流体になる」だの何だのと、そんなのは、先の先の話なんじゃないのか。詩を、わたしは、「白雲」に得たんじゃないのか。

<草稿(の手直し)>信号がホニャララまだ歩けない 動く白雲

「うすやみ」で<わたし>の暮らしの厚みが知れる

お手本を三度(みたび)見直す。

うすやみに丸椅子置かれ傷みたるミカンのようなわたしをのせる

いいなあ
いい歌だなあ

<わたし>は、「うすやみ」を体感しておいでである。

この一首を貫く共感性は、やはりまず「うすやみ」であろう。
実際、作者の古谷円は、「うすやみ」を初句に置いたではないか。

「うすやみ」によって、作者の、日々の暮らしは、その厚みが増したのだ。

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