わからない短歌?/服部真里子「水仙と盗聴」/今さらまた?

わたしが短歌を始めた頃の、今でも印象に残っている話題が、服部真里子の「水仙と盗聴」だった。

水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水(服部真里子)

当時の“評”をここに並べる煩は避けるが、わたくし式守の頭の中に、「水仙と盗聴」は、次のような対立構図を背景に記憶された。

わかる/
わからない
だとすると
わかる問題ないじゃん
わからないそんな歌はダメ

ついては、短歌を読むとは、いかにあるべきなのか、へと。

で、わからないならわからないで、好きなように読んでみればそれでいいではないか、なんて結論ではないようだった。
わたしは詠むことと読むことに甘いのか。

短歌の中高年ニューカマーは、短歌界とは、気になる一首を、あかるくたのしそうに語り合う世界ではないらしいことで、短歌の世界を選んだことに、しばらくちくちく悔いたものだった。

ありていに言えば、どんな世界も、なかよしクラブじゃなかった、というわけだ。

短歌を始めたばかりで一読して理解できない歌などいくらだってあったが、服部真里子の、この「水仙と盗聴」は、読むことに難儀はなかったし、短歌を読むとはいかにもたのしいものだ、とも思えたことを、今でも忘れていない。

先日、服部真里子の『行け広野へと』を読んで、短歌で表現をすることで何ができるのか、そう言ってよければ貪欲な追求の姿勢に、しばらく放心した。

『行け広野へと』を読んで、改めて、あの「水仙と盗聴」を読んでみた。

ニューカマーだった時の“読み”と変わらなかった。

改めて引く。

水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水(服部真里子)

このように整頓される。

一首を逆から読んでみるだ

こんな表になる。

措辞読者の言葉
水仙の水/
わずかなるまず
溢れ出した
わたしを巡る全身を
包んでくれる
わたしが傾くと不安になると
盗聴目に見えない悪
その一方で
水仙信じられる愛

服部真里子による歌人の名詞は、したがって、喩であると言えば喩であろうが、一首を読み終えると披かれる観念なのである。

名詞まずありき、ではない。
結果的に、名詞に、観念が吹き込まれた。

愛に➔水仙の喩

一読すると

水仙という名詞に、一読すると、愛が宿った

悪に➔盗聴の喩

一読すると

盗聴という名詞に、一読すると、悪が宿った

なお、次の一首も、たくさんの人が言及していた。
それは今も。

たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔(飯田有子)

この一首は、「水仙と盗聴」とは、ムードが違っていた。
この一首をどう読もうか、あくまでみんなで意見を出し合っている印象を持った。

ついては、短歌でできること(それは主テーマを”女性”にしたものの)を、みんなで探り合っている群像が、眼前にあった。

短歌の世界を選んだことの失望はどこかに失せた。

MEMO

歌歴の長い人には夙に知られていますが、山田航さんの『トナカイ語研究日誌』は、多くの歌人が紹介されてある、短歌を始めたばかりの人にまことに役に立つサイトです。わたしも現代歌人の名をほとんどまったく知らない頃は、このサイトで、多くの歌人とその短歌を知ることができました。

MEMO

『可愛くてごめん』は、たくさんの人がカバーしていますが、ここでは、最も視聴されているものにリンクを張りました。