短歌によって疲れきった人の前に愛を出現させることは可能か

妻が拒食症である。
身長164。体重35。

5、6年ほど前までは、体重は、26が続いていた。

されど彼女は、常、生きようとしてきた。
死ななかった。

拒食症への無神経な発言を、わたしは、心から憎む。
たとえば、頭がおかしいからである、といった類。

が、医師でも、患者本人でもないが、この発言は、憎しみを維持しつつも、事実としては、半分は適正なのではないかと。

アタリマエだ。
人間ここまで痩せられるようにできていない。
それを、ここまで痩せられるのは、「頭がおかしい」ことが一因にある、そう考えても不自然ではない。
(もっと他に言い方はないのか、との論点までは踏み込まない)

しかし、半分は、誤解でしかない。
たしかに精神科領域の治療が必要であるが、その精神科領域の治療のレールに乗って、しかし、体重が元に戻らないことが、「頭がおかしい」とやらになるのか。

そもそも手足が不自由な人へなら持つような憐憫が、ここにはない。
交通事故に遭って、リハビリに徒歩訓練を続けていても、容易に元に戻れない人に、「足がおかしい人ですね」と言えるか。

しかし、拒食症の克服に努力している人には、そのような発言をしてしまえる現実が、ままあるのである。

拒食症患者が何に苦しんでいて、人生に、どれだけ絶望しているか、患者の家族から見たレポートを、ここでするつもりはない。

また、たとえば家の中で、患者の、それははっきり迷惑でしかない言動があることを、ここで、レポートするつもりもまたない。

暗い事実の公開は、同じ苦しみを持つ人に、あるいは福音となる。

されど、この公開によって、同患者、もしくは同患者の家族が、すなわち当事者への偏見がさらに助長されることは、ここで十分過ぎるほどに警戒したい。

わたしに、以下に紹介する本多峰子、野口あや子の筆力はない。

病気が長くなれば家族も疲れ、「おまえのせいで家はめちゃくちゃだ」「おまえのせいで家庭が暗くなっている」というようなことも言います。でも、それは本当のことなのですから、仕方がありません。それぐらい言わないと、きっと家族のほうがストレスをため込みすぎて、ノイローゼになり、倒れてしまうでしょう。

本多峰子『拒食症なんかに負けないで――摂食障害に悩み苦しむすべての人に』
(女子栄養大学出版部)
第二章 家族の中で

拒食症の患者に、ご家族は、できるだけ寛大な態度でいましょうね、などと諭される類書があるが、自分は安全なところにいる人に、「寛大な態度」とやらが欠いていると不当に非難されている気にならないでもない。

それを、この『拒食症なんかに負けないで――摂食障害に悩み苦しむすべての人に』は、拒食症の患者ご本人にどう映るかは一概に言えまいが、拒食症に苦しむ患者に苦しむわたしには、類書を一頭抜いている名著になった。

『拒食症なんかに負けないで――摂食障害に悩み苦しむすべての人に』は、拒食症の妻のためにこれを購入した。そして、それこそ全文を暗記してしまう勢いで読み返してきた。

しかし、この著書は、いつしか自分のために読み返すものになった。

家族も共に苦しむほどに私のことを思ってくれているということさえも、信じていなかったようです。自分のつらさに目を奪われて、家族一人一人にそれぞれ重荷があり、問題があるのに、それを自分で処理しているのだということを
(中略)
その上にわたしの問題まで背負わせることは大人のやり方だとは思われません。

本多峰子『拒食症なんかに負けないで――摂食障害に悩み苦しむすべての人に』
(女子栄養大学出版部)
第二章 家族の中で

こうも内省のある声を聞けば、拒食症の患者と生きる人生に、息をつける泉は必ずあることが、わたしには、自然に信じられた。

聖書に、次のような一節があります。病気の子をもったある女の人がイエスの恵みに与(あずか)りたいと願いました。彼女はイエスに、自分はその権利がないかもしれないけれども「机の下の子犬でさえも、パンくずはもらえます」と言います。
(中略)
なぜか私は、この「机の下の小犬でさえも」という言葉にひどく感動しました。そのような小犬でさえも主人のおあまりをもらえるのならば、私だって、すこしは神様の恵みのパンを与えられるだろうと

本多峰子『拒食症なんかに負けないで――摂食障害に悩み苦しむすべての人に』
(女子栄養大学出版部)
第三章 社会の中で生きる

わたしは、イエスを信仰する者ではない(本多峰子はキリスト教徒であられる)が、これには、感が極まった。

「私だって、すこしは神様の恵みのパンを与えられるだろうと」の、著者の本多峰子の劇的な心の動きにも、これを何と言ったらいいのか、希望が持てた。

このくだりは、わたしは、それはもう何度も読み返している。
このくだりは、読み返すと、都度、わが人生の、時として暗く沈む部屋の窓に、明るい陽がさしこまれるからである。

「私だって、すこしは神様の恵みのパンを与えられるだろうと」の原典は、次のものである。

26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

マタイによる福音書15

福音書にあるものとして、たとえば、次のものもよく知られていようか。

13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

ヨハネによる福音書4

リンチさえ考えたことがないおみなごが痛々しい、とすり寄ってくる(野口あや子)

リンチさえ考えたことがない友人に、美味しいカフェを教わり、凹む(同)

いずれも野口あや子『かなしき玩具譚』(短歌研究社)の「スケバン刑事」の章からである。

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「おみなご」と「友人」は同一人物か。
わからない。

「すり寄ってくる」ことに何を思ったか。
わからない。

しかし、「美味しいカフェを教わり、凹む」では、明らかに「リンチさえ考えたことがない」ことはない<わたし>の激情が、ここで、完全に(と言っていい)鎮静された。

「リンチさえ考えたことがないおみなご」が、この時点では、よしや<わたし>にカッタルイ干渉に過ぎないとしても、「リンチさえ考えたことがない」ことはないような<わたし>に、既にして何らかの痕跡を残していたわけだ。

11

泣くときに涙袋を押しながら憎しみはおさえているのを知っている(野口あや子)

これも、野口あや子『かなしき玩具譚』からである。こちらは「マスカラ」の章に並べられた一首である。

拒食症の娘を前にした母親と思われる。
あくまでわたくし式守の見解です)

「憎しみ」をこの子に見せてはいけなかったか。
いけなかった。

4にある通りで、この母を、批判することはできない。
そんなことはしない。

ただ、母の前を離れられない倒錯した娘と憎しみを娘に見せることでしばしの安堵を得る倒錯した母の共依存の不条理に息をのむ。

自分への憎しみがある娘が、鏡に自分を映し出すと、そこに、自分への憎しみがある母が目に見えてしまう、そのようなことが少なくなかったに違いあるまい。

事ここに至れば、やがて拒食症に明るい兆しがさす日がきて、その日には、娘は、母といったん離れた方がいい。お互いのために。

しかし、それは、お互いが、ほんとうに母と娘になるために。お互いに、母への、娘への、ほんとうの愛を取り戻すために。
骨肉の愛のためには知恵が必要なことがあるのである。

では、夫婦はどうか。

12

「憎しみ」を見せられないままでいる者は、ただただ黙って耐えているしかないのか。
拒食症患者という暴君に仕えてこの人生を生きろとや。

憎しみさえ持ってもらえない親に熨斗をつけてお返しする手段を選べない者はどうすればいい。

信号が青になっても渡れなくなるほどに疲弊して、これを、これはと思った人に打ち明けてみても、結局、わたしが愚かだからとの趣旨の批判をされてしまうような者はどうすれば。

「おみなごが痛々しい、とすり寄ってく」れることはない。

「美味しいカフェを教わり、凹む」機会など夢のまた夢なのである。

13

妻には感謝している。

拒食症だとか何だとか、それはそれとして、この世界を、われわれは、一つ毬のようになって、これまで時を送ってきたのである。

これを感謝しないで何に感謝できる。

されど……
されど……

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野口あや子の『かなしき玩具譚』に、わたしは、拒食症なるものの未来に希望を得た。

本多峰子の『拒食症なんかに負けないで――摂食障害に悩み苦しむすべての人に』に、わたしは、拒食症なるものと関わることに、いたずらに自分を追いつめない矯正を得た。

されど、誰が知る。
われにたとえばこのようなおもいが拭い難くのこっていることを。

神よ、ただただわたしが、愛に包まれることはないのですか。

これは呪詛の言葉ではない。
素朴な(まことに素朴な)おもいとして。

そして、こうなる。
こんな考えが頭にあるから妻が死を遠ざけることにかくも時間をかけさせてしまったのかと。

あるいはこれが傲慢に過ぎないとしても、わたしは、だったとしたら慙愧に堪えない。
わたしは、「机の下の子犬でさえも」なく思えて、そして、神に問うのである。

神よ、ただただわたしが、愛に包まれることはないのですか。

わたしは最近、野口あや子の『かなしき玩具譚』と本多峰子の『拒食症なんかに負けないで――摂食障害に悩み苦しむすべての人に』を読み返してばかりいる。

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