上村典子「十四歳(じふし)」「咲きのこる」この美しい錯覚

十四歳(じふし)

駅舎沿ひ黄色のカンナ咲きのこる誰をも閉ざす十四歳(じふし)のやうに(上村典子)

KADOKAWA『短歌』
2016.2月号
「誕生日」より

上村典子「十四歳(じふし)」「咲きのこる」この美しい錯覚

「駅舎沿ひ黄色のカンナ咲きのこる」姿は、
そこに、
「十四歳(じふし)」のご自分も見せたのか。

今はそんなことないの?

今も人を閉ざしているの?

今はそんなことはない

今はそんなことはない。
「十四歳(じふし)」のご自分が、まざまざと思い浮かんで、そぞろになつかしくなる。

しかし、この「十四歳(じふし)」には、痛みが見えないか。

誕生日

「十四歳(じふし)」を追憶する一首は、連作「誕生日」に収められている。
連作のタイトルは、次の一首から採られた。
(連作先頭の一首である)

みせばやの鉢をたまはる誕生日花の言葉を静穏といふ(上村典子)

『同』
「同」より

上村典子「十四歳(じふし)」「咲きのこる」この美しい錯覚

<わたし>はもう、こんな誕生プレゼントを贈られる、立派な女性に成長した。
「十四歳(じふし)」は遠く過ぎ去ったのである。

<わたし>は、今は、「誰をも閉ざ」してはいない

「誕生日」だった。
「十四歳(じふし)」の追憶は、この「誕生日」あってが契機か。

「静穏といふ」と。
この結句によって、<わたし>に、「静穏」なる花言葉に戸惑いを持った印象を持つ。

静穏なる人生なのか

読み返す。

みせばやの鉢をたまはる誕生日花の言葉を静穏といふ(上村典子)

「静穏といふ」と。
「静穏」に、<わたし>は、距離を置いている調べに聴こえる。

静穏を、風雅な花言葉として、いったんのみこみはしたが、釈然としないものでもあったのか。

来し方が、たとえば「十四歳(じふし)」もそうであるが、静穏と言えるのか、言えないのか、これまでの人生を検証してみたのではないか。

上村典子は、静穏をキーワードに、答えのない問いを設定したのでは

緊張感を内在する稠密な一首に、わたくし式守は、ふかいためいきをついた。

再び十四歳(じふし)

読み返す。
これで最後だ。

駅舎沿ひ黄色のカンナ咲きのこる誰をも閉ざす十四歳(じふし)のやうに(上村典子)

「咲きのこる」と。
ここにあるカンナであるが、これもまた、静穏と言えないか。

駅舎に沿ってひっそりと存在していることで、カンナの、今こそ美しい黄色が目に鮮やかに見えるようではないか。

かつて「十四歳(じふし)」だった<わたし>のように

かつてのように

今でこそ「みせばやの鉢をたまはる」人間関係があるが、「十四歳(じふし)」では、未来に、そのようなこともあるなど考えられもしなかった<わたし>。
孤独と悲痛の底にふるえていたのではないか。
駅舎に沿って咲きのこっているようなのであれば。

されど

「咲きのこる」と。

追憶の「十四歳(じふし)」は、したがって、滅んでなどいないのである。
滅んではいない。
滅んではいないが、「十四歳(じふし)」を、<わたし>は、その後の人生で、耐える価値のある痛みにし得たのだろう。

「咲きのこる」の「のこる」は、最高の、かつ美しい青春の幻影の措辞になった。

上村典子「十四歳(じふし)」「咲きのこる」この美しい錯覚

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