佐伯裕子「さようならのよう」大きな桜にとって日本の未来は

大きく動く桜

圧倒的量感となり花群は大きく動く さよならのよう(佐伯裕子)

本阿弥書店『歌壇』
2016.6月号
「感傷生活」より

これは、一本の、大きな桜の木か。

この連作「感傷生活」に次のような歌がある。
桜の木が「大きく動く」と考えてよさそうだ。

春の馬おとなしければ馬場に降る桜の音を聞くばかりなり(佐伯裕子)

子の未来、国の行く末 満開の夜の明けに聞く喘鳴かすか(同)

この国の短歌は、桜を詠んだ名歌が数知れずあるが、就中ここに挙げた三首は、こよなく愛している。

毎年のことなのに日本人は驚くのである

佐伯裕子「さようならのよう」大きな桜にとって日本の未来は

桜の花が咲きみだれている。
この国の人々は、毎年のことなのに、春になると、桜に新鮮な驚きを持つのである。

なぜいちいち驚く。

こういうことではないかと

世の中は三日見ぬ間に桜かな(大島蓼太)

そして

悠々としてそこに存在する桜の木を前に、あるいは桜の木の下で、この国の人々は、好きなままにさせてもらえるのである。

日本人を掩ってしまう

佐伯裕子「さようならのよう」大きな桜にとって日本の未来は

桜の木が聳えている。
桜の木は、花をわっと咲かせると、一枚一枚、花びらをこぼしてしまう。

あたかも日本の人々をすべて掩うかのように。
いったん形を蓄えれば、一枚や二枚散ったところで、桜は桜である。

美しい。
そして神々しくもある。

それは
このように

春の馬おとなしければ馬場に降る桜の音を聞くばかりなり(佐伯裕子)

「桜の音」の「音」とあるが、ここは、身に滲み渡る静寂がある。

桜の音

春の馬おとなしければ馬場に降る桜の音を聞くばかりなり(佐伯裕子)

しかし

先頭に引いた一首はどうか。
「音」がない。

圧倒的量感となり花群は大きく動く さよならのよう(佐伯裕子)

たとえば、たとえばであるが、小鳥のさせずり、とか。
のどかに桜の花の枝から枝に伝ってもいようさえずりは、この一首に、あったのかなかったのか。

聞こえないのだ。
「大きく動いている」のであれば。

生長に邪魔なものはこれを排して、こうもなった、とや。

とも思えてくるが

こういうことではないかと

自然界の公理を絶して、一本の桜の木は、この国の時空を生きてきた。

が、春。
桜は満開になっても、その姿は、たちまち元に戻ってしまう。
これを、佐伯裕子は、「さよならのよう」と。

さよならのよう

佐伯裕子「さようならのよう」大きな桜にとって日本の未来は

圧倒的量感となり花群は大きく動く さよならのよう(佐伯裕子)

子の未来、国の行く末 満開の夜の明けに聞く喘鳴かすか(同)

月並みな別れじゃないな。
で、来年の春にまた相まみえる、と。

でも、これ、ほんとうか。

再会を約したわけではない。
来年くらいはまあまた会えるとしよう。
でも、再来年はどうだ。

ほんとうにまたご対面といくのか。
いったとする。

しかし
次は

翌年、春、桜に、<わたし>は、この国の人々はどう映る。
<わたし>は、この国の姿は、来年は、どうなっていよう。

この一首は、2016年、コロナ禍の前に詠まれている。
一本の大きな桜の木は、今も、この国の地上のどこかで大きく動いている。

リンク