三ヶ島葭子「わが顏に手拭が」まことにやさしい人がいること

うちのめされるようなやさしさが短歌に

妹は障子はたけりわが顏に手拭が被(かぶ)されてありし(三ヶ島葭子)

創元社『三ヶ島葭子歌集』
(大正十五年/をりをりの歌
・その六)より
<「障」は旧字(以下同)>

この連作の1首目はこうだ。

わが病すこし快(よ)ければとことはに死ぬ日なきごと身をばさびしむ(三ヶ島葭子)

そのような姉の代わりに、姉の部屋を、妹は、そうじした。
ただでさえ埃は毒だ。
「顏に手拭が被され」た。

いい妹だ。
当然のことをしたまでだろうか。

この小宇宙

三ヶ島葭子「わが顏に手拭が」まことにやさしい人がいること

うみたての玉子

三ヶ島葭子「わが顏に手拭が」まことにやさしい人がいること

うみたての玉子を人に貰ひたり毛のつきたるがいくつもあるも(三ヶ島葭子)

(大正十四年/身を病みて)より

見かけなくなったなあ、毛がついた玉子。

でも、それだけ新鮮。
「人」なる人は、この新鮮なのを、どうしても薄幸の三ヶ島葭子に食べさせてあげたかったのだろう。

「うみたて」っちゅうのがたまらない。
「うみたて」っちゅうことは、生命の力の、その指数が高そうではないか。

その指数をわけてもらいなされ

長生きなされ

体力をつけなされ

あたしゃ三ヶ島葭子の何なんでしょう

話しかけくれぬ

三ヶ島葭子「わが顏に手拭が」まことにやさしい人がいること

働かぬきまりわるさに默しをれば義弟はわれに話しかけくれぬ(三ヶ島葭子)

(大正九年/所澤の家
・その二)より
<「所」は旧字(以下同)>

「所澤の家」で何もできないでいる義姉のうしろめたさを取り除いてあげよう、と。

三ヶ島葭子は、薄幸の女性ではあったが、得難き義弟がおられたようだ。

さりげないやさしさがすばらしい。
常、気を配ってでもいなければ、義弟も、この義姉にこうはできまい。

よかったね、よっちゃん

やさしくされたんだね

あたしゃ三ヶ島葭子の何なんでしょう

病みこやり灯もつけず

病みこやり灯もつけず一人あればよその灯(あかり)の障子にさすも(三ヶ島葭子)

(大正十二年/をりをりの歌
・その三)より

曇り日の障子小暗きひとときは家うちながらたたずみにけり(同)

(同)より

このような一隅は、現代にも、少なくなくあろう。

わが国は、飢餓と貧困は、たしかに少なくなった。
されど、病と孤独は、一掃されることはない。

一言で言えば、かわいそうだ。

かわいそう、なんて言われると、プライドに障る人がおられる。
もはやプライドが働かないままに生きている人もいように。

三ケ島嘉子

唐突に

このような女性たちがいること。

明治をはるか遠くに現代でもいること。

そして、そのような女性を母に持つ子がいること。……
子は母に無力を覚えるしかない。

ついては

ありがとう

妹さん、玉子をくれた人、義弟さん

ありがとう、ありがとう

三ヶ島葭子「わが顏に手拭が」まことにやさしい人がいること

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