
目 次
カラスは歩くこともある
トントンと羽を広げて跳ね進むカラスにもある無心の時間(細溝洋子)
本阿弥書店『歌壇』
2015.10月号
「鳩とカラス」より
マンションの清掃作業に従事しているが、カラスという鳥類は、まったく迷惑な存在なのである。
指定曜日にゴミ出しをしていると、わたしがそばにいることに警戒心の一つもあろうに、平気でゴミの袋の山を崩す。食いちぎる。散らかす。
ついては仕事が増える。
わたしがいない間に、少しはあった警戒心を解いたのか、あたりがゴミの惨状と化していたことなど枚挙にいとまがない。
一言で言えば、憎い。
もっと言ってしまえば、死んでくれ。
さらに言ってしまえば、この手で殺したい。
それがカラス
そのカラスが、
「トントンと羽を広げて跳ね進」んでいるではないか。
<わたし>はこれを、「無心の時間」である、と。
似た光景を見たことがあるが
わたしが勤めているマンションの通りは、ほんの少しだけ傾斜がある。
多少とは言ったって坂は坂だ。
この坂を、カラスが、トントンと上っているのを見たことがある。
なんだかおかしい。
何のために生まれてきた。
飛べよ。
歩くことないではないか。それも上り坂を。
わたくし式守は、この場面を、短歌にしてみようとしたことがある。
完成しなかった。
なぜ完成しないか、この一首を折々読んでは、わたしの不足を探ってきたものだ
まず細溝洋子はカラスへの心に詩がある

わたしが詠みたかった作歌的動機は、カラスのくせに歩くなよ、である。
多少の調味料を加えると、それも上り坂を、と続くか。
このわたしにさんざん迷惑をかけておいて、のんきに歩くな、というわけだ。
もちろんそんなことを起点にした詩(短歌)があたっていい。
侮蔑はこれでなかなか文学へのルートなのだ。
が、わたしの(カラスの)短歌は、正にそこが足りない。
わたしのは、侮蔑なんてごリッパなものではないのである。
ただただ私的な個人感情だ。
そこに自己批判もなければ、と言って、カラスの擁護論に薄っぺらな正義感が耳について、その主張と刺し違える気概もない。
ば~か、ば~か、カラス
だけだもんな~
だったらゴミの散乱に仁王立ちのカラスを描いた方がまだよい
時の経過に伴って、短歌に、多少のすれっからしになっている。
わたしがいったん仕上げた作品が、これまでわたしにため息をつかせた作品群に遠く及ばないくらいの自己採点ができれば、完成まで導けよう筈もない、ということだ。
そこに「カラスにも」の「にも」
トントンと羽を広げて跳ね進むカラスにもある無心の時間(細溝洋子)
読み返すこといくたりか、ここにある「カラスにも」の「にも」に、わたしは目を離せなくなった。
「にも」とあらば、「にも」の前のカラスに、細溝洋子さんとて、カラスも人間と同じなのです、なんて前提ではあるまい。
しかし
この「にも」によって、「にも」に続く“無心の時間”は、にわかに精彩を放ってきたではないか。
カラスも人間と同じだった。
細溝洋子さんほどの名手ともなれば造作もない措辞だったのかも知れないが、わたしは、「にも」一語の働きに気がつく「にも」これだけ時間がかかるのである
思えば「にも」とは実に見事な働きだ

「うそをつくにも」の「にも」
人間、たまにはうその一つもつくけどさ~
うそをつくにもほどがあるよ~
うそをついて、しゅん、となるボク。
「関西にも納豆」の「にも」
納豆が好きな関西人もいんで
関西にも納豆は売られてんねんで
薄っぺらなことを言って、しゅん、となるボク。
たった2音でいいのである

読み返すのもこれで最後だ。
トントンと羽を広げて跳ね進むカラスにもある無心の時間(細溝洋子)
なるほど。
こう詠めば、ふだんはいけ好かないやつに意外なやさしさを発見した感動「にも」似る。
にも
歌の上手でないことを嘆くことがあって、それはしかたがないとしても、この「にも」的なものをもっと探して、すちゃらか短歌以外もものせるようになりたいなあ。
ビバ
細溝洋子