短歌は死への接近があるのか/一ノ関忠人の魂を搏つ真実の歌

親しい人に自死されたことがある。
たくさんのことを語り合った。
と思っていた。
そう思っていたのは、わたしだけだったのか。
わたしはしばらく放心していた。
徐々に怒りで全身の血が煮えたものだったが。

また、やはり親しかった人の中に、自殺未遂で、入院した人もある。
安堵した。
安堵したが、ここでもまた、やがて怒りで全身の血が煮えるようになったのであるが。
以後、この人がどうしているのか、わたしは、知らないままである。
拒絶されたままだからである。

両名、うつ病だった。
わたしもまた、軽症ではあったが、同じ疾患を患ったことがある。
信号が青になっても足が動かなくなって、自分の人生が一変したことを理解したものだったが、なに、ほんとうはとっくにわかっていたのである。いずれこうなることを。

どいつもこいつもなんなんだ。
そもそも人間が自分で死ぬことは神のプログラムに用意されていまいに。
生き続けているわたしが加害者にでもなった気持ちになる。
二人に、わたしは、何をした。何をしなかった。

ごめんなさい。助けられなくて。
ごめんなさい。助けられなくて。

うつ病なんて誰にでもある。しかし、これが、うつ病の行き着く先である。
わたしは運がよかっただけのような気になる。

自死を遂げた人は短歌をたしなんでいたそうな。それは、その死後、知ったことだった。
わたしはまだ、短歌を始めていなかった。
あ~ん、短歌だ~、となった。
死を回避する力は短歌にないらしい。あるいは短歌なんてしてっからこんな結末を迎えたんじゃね~の、とも思ったものだったが。

一ノ関忠人に、「草迷宮」なる連作がある。
<正しくは「辶」>

次の二首に存在する<わたし>に、わたしは、圧倒的な魅力を覚えた。

空罐のうつろにひびく街外れ眞赤なポストが口あけてゐる(一ノ関忠人)

<「空」は旧字>

邑書林 セレクション歌人
『一ノ関忠人集』「群島」
(草迷宮)より

義肢一對脫ぎすてられし新宿の地下通路ねずみの屍(しかばね)を蹴る(一ノ関忠人)

ポストの口こそ「草迷宮」の入口とも思しき錯覚を起こす。
ひいては、一ノ関忠人短歌の入口でもあるかの。
新宿のこの地下通路は恐怖と禁断のムードに満ちている。誰がここへ誘き寄せた。

無事だったからよかったものの、一ノ関忠人は、ポストの口を見て、この通路をくぐるべきではなかったのではないか。

そして、もう一首。これも。
連作「草迷宮」最後の一首である。

酒臭き息にだきつく毛むくじゃらその手のがれて夜の天神(一ノ関忠人)

なに、このような人生の、暗く沈んだトーンに、一ノ関忠人は、倒錯した甘美に酔い痴れちゃいないのである。
抵抗しているのである。

結果、この地下通路を、<わたし>は、抜ける。

また、一ノ関忠人の同書に、「鷺の骸」なる連作もある。

次の二首に存在する<わたし>に、わたしは、圧倒的な魅力を覚えられた。

鷺一羽あはれ死にけりどぶ泥にまみれて溝の底にひらたし(一ノ関忠人)

泥まみれにつばさとぢたる鷺一羽群れを離れてうちすてられつ(同)

一ノ関忠人は、短歌に、特殊な喩は用いない。
それのどこをとらえて詠むか、そのどこに、腐心なさっておいでの印象を持つ。

結果、この二首に、鷺の死骸の翼がだらりとしている姿が、目に見えるようである。

鳥は手負いの仲間に千魂の弔いなどしない。
が、一ノ関忠人は、ここで、鷺の死をありのままに見つめて、ご自分に冷静であることを課す。

冷静であることで、逆に、どれだけ悲痛の底においでか、わたくし式守の肺腑を破るのである。

ここでは深く踏み込まないが、一ノ関忠人氏は、親しいご友人を亡くしたこと一度ではない過去がおありである。

また、ご自身の人生に、悪性リンパ腫の診断をされて、しかし、なお生きておいでである。

この稿はここで終える。