佐伯裕子の「うっすら」/老いは醜いのか/ゲーテと比較して

八十歳になったゲーテは、十八歳の若い女性に結婚を申し込んだんだそうな。
いくらゲーテでもこれはアウトじゃないか。
いくつになっても歩いていれば路傍の花に心を奪われることはあろう。でも、ゲーテさん、八十にもなって、十八の子にあなた。
ゲーテは断られた。

わたしが八十になって、誰かを好きになってしまって、その子が十八だったとする。
八十のわたしは、妻に先立たれていて、妻がいるのになんて問題はない設定としようか。
人生がこれからの子に介護のために結婚させるみたいだとか何だとか、そういうことも、ここではまあ問わないことにしようか。
でも、できるかなあ、これ。

それと~、

かったるくないですか。八十になってこれから新婚生活。
そこまで元気で金もあるなら若い時にあれこれ制約があってできなかったことを存分にたのしみたいね、あたしなら。
と言っても、好きになっちゃえば、そうも言っていられなくなるのかな。

ゲーテは、それを、できちゃった、と。
圧倒的に生きまくっている老人だな。
膝が痛いの酒が飲めなくなってきたの、あたくしシキモリと老いの格が違う。
八十という属性を隠せば、ゲーテの一連は、青春の美と情熱の姿ではないか。
とは思う、とは思うが、でも、ゲーテは、後世の極東の還暦前の男に、ありていに言えば老醜に見えた。

老いるとは醜いことでしかないのか。

わたしの好きな歌人・佐伯裕子さんに、次の一首がある。

あたたかく窓にまつわる湯気のあり七十代の冬はうっすら(佐伯裕子)

KADOKAWA『短歌』
2024.1月号
「柿の実」より

佐伯裕子さんは、現在(2024年)、七十六歳でらっしゃる。

MEMO

佐伯裕子さんは、1947年6月のお生まれ

で、醜いですか、この一首。

「あたたかく窓にまつわる湯気のあ」るとのここはどこだろう。
どこであろうと、湯気のせいかどうか、窓の外は「うっすら」だと。七十代は、冬が、「うっすら」だと詠まれているが。

で、醜いですか、これ、この一首。

七十代であることに良いも悪いもない、たった今の佐伯裕子さんの、あるがままの平明なご自分を映し出していると思えませんか。
美しいたたずまいを思えませんか。

人間はこんな七十代を迎えられるのである。

この連作「春めく」は、こんな一首もある。

浅黄色の柿の実ふたつこの秋は二つのみなり大樹の陰に(佐伯裕子)

もっともっと実った年もあったのであろうが、今年の秋は、「二つのみ」だった。
人間も自然も、一切は、時間の支配を受けていることを知らないわけにはいかない。

先の一首と合わせて読むと、「大樹」は、「大樹」なのにはかなく目に映る。

あたたかく窓にまつわる湯気のあり七十代の冬はうっすら(佐伯裕子)

浅黄色の柿の実ふたつこの秋は二つのみなり大樹の陰に(佐伯裕子)

どうよ、これ。
すげーな、この二首。
「二つのみなり」の「なり」で、生命の滋味を、蘇生を、人一人にこうも迫るとは。

大樹の心遣いを、ここに、ありがたく美しく思える。

人は衰える。
しかし、あたたかい窓にまつわる湯気に「うっすら」を、そのまま受容する境地は、醜さも衰えもない。