
『短歌往来』2025年10月号を購読。
「【特集】近藤芳美」をおもしろく読む。“エッセイ”6編と“近藤芳美の5首抄”4編。
ここでは、その中の大辻隆弘氏の「近藤芳美の五首」のこと。
(前略)
近藤の歌が論じられるのはせいぜい第七歌集『黒豹』(昭43)まで。その後の五十代後半から九十代前半までの作品は顧みられることがない。
(後略)
引用された5首の4首目に、次の一首がある。
深き雪侘しみベッドに来るとするを僅かに吾の溲瓶を零す 『岐路』
大辻は、この一首に、こんな評を寄せた。
(前略)
『早春歌』のなかであれほどみずみずしく描かれていた恋人たちがこんな風に老いてゆく。その様子を近藤は淡々と描いている。凄みを感じる描写である。
ここでの「凄みを感じる」なる評語に、筆者(式守)は、一首評というものに、新しい観点を得られた。
近藤芳美の歌ありきであるのはもちろんであるが、近藤芳美の作品群のことはいったん措いておいて、一首評というもののありようについて、筆者(わたくし式守)は、これまで自前の論など何も持っちゃいなかったのではないか、と思った。
一首評でも、歌人論(あるいは人物論)になり得るらしい。
そんなものは一首評に要らないと言われれば、式守に、反論する言葉はないが、たとえば歌集評を読むとその著者の顔つきが見えることがある。顔つきとは、歌への姿勢とかその姿勢の基たる生き方のことであるが。著者はここでこう考えるのか、人間に。このような価値を置くのか、とか。その人の歌をまとめて読むことで。
筆者(式守)は、歌集を読むと、あるいは歌集評を読むと、そうなることがしょっちゅうあるが。
で、大辻隆弘氏の「近藤芳美の五首」によって、一首評でもこれはあるのか、と。
あの~、
これ、今さらですか。
さて、
引用された歌を読み返す。
深き雪侘しみベッドに来るとするを僅かに吾の溲瓶を零す
溲瓶だよ、溲瓶。よぼよぼのじいさんとしわくちゃのばあさんだよ。
なのに、何なんだよ、この共に生きてきた圧倒的な夫婦の存在感は。
どう生きればこうなれる。また、どうすればこう詠める。
作者(近藤芳美)がどう生きてきたか、どう歌に向き合って来たのか、読者(つまり筆者(わたくし式守))に迫った。
混乱。
自分の人生を総点検してしまう。
と、読んだ筆者に、「凄みを感じる」が目に入った。
これは、作家・開高健が、さまざまなところで、その小説がたとえ破綻していてもそこに一言半句を、とほとんど切望していた、その一言半句なのではないか。
人間存在のなまなましさの最前線に立って、これを、どう言語化すればいいのか。
しないでいい、という考え方がひとつ。どのように評してもいい、という考え方もまたあろうか。
が、どうせ評を為すのであれば、また、それを読んでもらうのであれば、そこに載せた実作へのおもいをよりまことなものにしたいではないか。
大辻隆弘「近藤芳美の五首」、その一言半句は、式守に、一首評の価値を新たにした。
式守操





