高島裕の連作/久永草太の時評/『短歌往来』2025.7月号

『短歌往来』2025年7月号を購読。三宅勇介氏の『倫理と文学』(評論月評)を繰り返し読む。高島裕の『アイデンティー』と久永草太の『何を言っても許されるのか』(時評)について。筆者(式守)はいずれも読んでいた。また、以降の、両者へのご意見(数多ある)もできる限り読んでいた。

筆者は、この稿で、高島裕氏の歌群を、擁護も批判もしない。久永草太氏の主張もまた、肯定も否定もしない。

高島裕、あるいは久永草太へのご意見は、各々、頭に入った。三宅勇介氏の(評論月評)も、再読再々読に耐えるご考察だったかと。が、ここでは氏の稿に踏み込まない。ここでは、こんな騒ぎになることが筆者(式守)には率直に言ってわからない、ということを。

三宅勇介氏が『アイデンティー』の歌で引いたのは、次の三首である。
(それは、久永草太氏が(時評)で引いたものでもある)


〇 国連を味方につけて強気なり、性と婚姻の紊乱者ども

〇 「産む性に賃労働を押し付けた」と数十年後に責められむ、男は

〇 「おひとりさま」でいいわけがない(目を覚ませ)遠天をゆく雁のひとこゑ

三宅勇介氏が(時評)で注目した問題点は3点。


〇 性的少数者に対して「紊乱者ども」と表現している

〇 女性に「産む性」と押し付けている

〇 独身であることを過ちのように糾弾している

高島裕は、『アイデンティティー』で、性的少数者が紊乱者であるとほんとうにお考えの歌なのか。ありていに言って、高島裕は、その存在を認め得ない頭脳でしかないのか。「産む性」うんぬんもそう。「おひとりさま」もまたそうだ。

この国は、ある主張が正義や正論の側にまわるや、その主張に異論を唱える者は、わっと吊し上げられることがある。高島裕氏は、この国のひとびとの、そのような不自由性、あるいは危険性を嗤っておいで、との“読み”を持ったのであるが。「性的少数者」の、「産む性」の、また「おひとりさま」のこれからにまずは重畳、とのお考えあって世に出した連作なのだろう、と。

久永草太氏においては、それくらいは見通しているが、されど、「性的少数者」に、「産む性」に、また「おひとりさま」にとってこれは許されざる表現である、とご主張なのだろう、と。

わたしの“読み”はまたピントがすれていたのか。人さまとチューニングがまた合っていなかったのか。

その後の、この問題作(になってしまった印象を持つ)について、筆者(式守)においてだけなのか(だけなのだろう)、あたかも“朝まで生テレビ”の様相に見えてきたのである。
おつむがわるいのか、おれ。

ほんとうにわからないのだ。
ここには批判がある。
批判が封じ込まれる世の中はごめんであるが、でも、有意義なのか、こんな様相にしかならない議論で。
とのおもいが拭い難くのこるのである。

飛躍の誹りは免れまいが、そう思ったこと、これまでもいくたりもあったので、この機会に。
常にそう思ってしまう、とは言っていない。以下の構図がある時に、なのであるが。

歌人Aを歌人Bが批判する。
ここで、歌人Bは、歌人Cも歌人Dも意見が同じであることを疑っていない措辞である。たしかに歌人Cも歌人Dも、同じ意見を謳いあげて拳を振り上げておいでである。
しかし、「同じじゃないよ」と言いたくなる歌人Êは想定しないのか。「同じじゃないよ」の歌人は議論に参加する資格は奪われているのか。
差別的発言である。ヘイトスピーチである。なるほど。では、三島由紀夫の『金閣寺』も発禁処分にせよとのお考えなのか。
歌人Bは呆れてしまうだろう。発言する機会を奪ってなんていないよ~、どうしてここで『金閣寺』がでてくるんだよ~、もっとよく読んでくれないか~、となろうか。その上で批判してよね、と。
この「もっとよく読んでくれよ~」をいちばん言いたいのは、歌人Aなのではないか。
歌人Aは、正にこのような状況が生まれる人間について問いかけた可能性は検証されないのか。

式守操