
『短歌往来』2026年1月号を購読。喜多弘樹氏のエッセイ「吉野の熊」をおもしろく読む。
吉野の山は聖なる山である、なんて趣旨の話を聞くことがある。正直なところ、筆者(式守)の頭にはすっと入っていない。本を読み足りていないせいなのか、あるいは、目に見えないものを感じるセンサーが鈍いのか。吉野山の本の「聖地」という言葉、わたくし式守には、この国の外の出来事のように思わないでもない。
のであるが……。
吉野山の歴史に凄まじい熱量があること、これはわからなくもない。役行者(えんのぎょうじゃ)は、人間の限界に挑んでいたのか、とも思える修行を、この地で重ねた。ただ一つの悟りを得るためだけに命がけなのである。その峻厳な足跡を想像すると、背筋がしゃんとなる。心地よい緊張感が背中を走る。
そんな厳しい修行の場に、あんなに美しく優しい桜が咲き乱れる。吉野の桜は神様からの贈り物。役行者が自ら彫り上げた本尊が桜の木であったことで信者たちが献木を続けたからだとか。されば、吉野の山は、命を削って祈る人間を、拒絶するのではなく、むしろ桜の衣で優しく包み込んで、われわれ人間たちを歓迎していたのかも知れない。
各地で熊の出没が世間を騒がせている。迷惑な熊たちだ。
が、人によっては、人間がそもそもいけなかったとかなんだとかごもっともな説もあって、反論できないことがまたややこしい。
(前略)
吉野山中ともなると山仕事の最中に熊に出くわしたという話はよく聞かされたものだ。だが、不思議に、ケガを負ったり殺されたという話は聞いたことはない。人とけものたちとの聖なる了解
(後略
そして、喜多弘樹さんは、最後に、前登志夫の歌で結んだ。
鈴つけて山道を行く鳴り出づるひそけき環にて死者とへだたる
『靈異記』
吉野の山の聖なる生死の境界に、鈴の音が。「人とけものたちとの聖なる了解」の音でもあるのではないか。
桜の衣のこの山に、危うくも、甘美な鈴の音が、筆者の心をふるわせた。
式守操
