忘れたくないこと/『短歌往来』2025年11月号/駒野繭さん

『短歌往来』2025年11月号の今月の新人をおもしろく読む。
駒野繭さんの紹介。連作「園帽子」掲載。

(前略)
短歌を詠むたびに、なんでもないことでも忘れたくないことばかりだなと実感します。
(後略)



  連作に添えた
エッセイより

この感じ方には不意を打たれてしまった

連作「園帽子」より二首引く。

背ほどの大根を抜く子らは群れ真っ赤な頬が吐く息の白(駒野繭)

今日ねぼくみみずを殺したんだよと報告受ける午後八時半(同)

そうか。「子ら」に大根はサイズが似たようなものだったのか。大根にもよるだろうが。
幼稚園(保育園)の遠足か。ご家族の旅行か。
一首のちょうどど真ん中に「群れ」がある。この「群れ」によって、結句が体言止めなのに音楽性を帯びた。
結句は、「白い息」ではなく「息の白」であることにもまた好感を持った。色のつながりが絶妙である。
赤と白の色彩を思えば、「子ら」に、「大根を抜く」ことは、容易でなかった。が、今、「子ら」は、心楽しい時間の中にいる。今ここで「大根を抜く」ことは、もとより労働ではない。労働が美徳であるとの観点もあろうが、おおかたにとって、いまいましいばかりである。「子ら」もいずれそうなる。と、断言はできないが、そうなる可能性は低くあるまい。
「吐く息の白」の一つ一つが、<わたし>に、何かを告げた。読者(わたくし式守)にも告げた。
人生の始まりに、楽しさが溢れていること。美徳もいまいましさもないこと。

直截にそうと詠まれていないが、ここは家の中と読んでいいだろう。
時間は、夜の八時半である。
子が母に、その日にあったことを「報告」した。「みみずを殺した」ことを。
「殺した」が秀逸である。「報告」なる硬い語彙と親和している。
が、いいのか、親和していて。
子どもとは残酷なものであるとは大昔から言われていることである。が、当の子どもに、それは、誇らしいことでもある。子は「殺した」なる語彙に潜むものをちゃんとわかっていて母に「報告」したのではないか。
殺意があってか。過失致死か。大人なら死なせてしまったとなるところを、子は、殺したと言った。
人間もみみずも生命の価値は等価であるとの観点はあろうが、子は、人間としてみみずより強かった。
ということを知った。知ってしまったのだ。だから報告したのだ。
死んだみみずを土に還す体験よりもはるかに自分は生きている側だとわかったのではないか。

式守操