
『短歌往来』2025年10月号の今月の新人をおもしろく読む。
深尾早央里さんの紹介。連作「青葉闇」掲載。
(前略)
考えながら、立ち止まりながら、迷いながら、詠んでいます。
(後略)
連作に添えた
エッセイより
連作「青葉闇」より二首引く。
自転車をかつ飛ばすとき青葉もゆ旧街道の蝉声(せんせい)を聞く(深尾早央里)
青葉の闇にひそむ孤独を垣間見て真夏の道が長くさみしい(同)
自転車をかつ飛ばすとき青葉もゆ旧街道の蝉声(せんせい)を聞く
「自転車をかつ飛ばす」の「かつ飛ばす」に、目的地に急いでいる以上のニュアンスが帯びていないか。また、「旧街道の蝉声」は、ここに、どれだけ長い時間の流れがあるかを感じられる。
すると、「かつ飛ばす」<わたし>にただの移動中ではない永遠性が結び付く。
と、読めた。
いい歌だなあ。
旧街道には、そこがどれだけ時間に洗われても、たくさんのひとびとの痕跡がある。
「青葉もゆ旧街道」は、「蝉声」によって、<わたし>の未来を保証したのではないか。
青葉の闇にひそむ孤独を垣間見て真夏の道が長くさみしい
<わたし>は、自分の孤独を、青葉の闇に見てしまった。
青葉の闇が、<わたし>の孤独を隠していたのに、それを自分で見つけてしまったのである。
若さそのものが孤独を意味していることがある。されば、その孤独を見つけるのも若さだ。
そんな自覚はなかろうが、自分の孤独を、いつしか自分で探していたのではないか。そうとも読めよう直截的な措辞はないが、「青葉の闇にひそむ」のを「垣間見」たとは、そのようなありようの手当てなのではないか。
闇をただの闇にしか見ないで生涯を終える人は、存外、少なくない。しかし、<わたし>は、違う。
「真夏の道が長」い、と。ここをともに歩む人はいない。たった今いないどころかまだまだ道のりがあるのにいない。闇はただの闇として生涯を終えない人といつしかここを歩くことはあるのだろうか。
考えながら、立ち止まりながら、迷いながら詠んでいます、との作者の声を先に引いた。その姿勢が、ここに、これだけ存在感のある歌を生み出したことに、筆者(式守)は、膝を屈して敬いたい。
式守操



