吉田正俊「親子猫」「庭芝草」短歌の裏に聴こえていた声が

親子猫

朝宵に鳴きて寄り来る親子猫こころやさしき時は食をやる(吉田正俊)

短歌新聞社
吉田正俊『草の露』
「くさぐさの歌」
(猫の歌)より

吉田正俊「親子猫」「庭芝草」短歌の裏に聴こえていた声が

いつもいつも食べさせてあげて、猫が、いつもいつもかわいいばかりでいられないのだ。

気まぐれな猫より気まぐれ?

違う。
そうじゃない。そうじゃないのだ。

この親子猫への情はあるではないか。
鳴きて寄り来る、と。

「こころやさし」くなれない時は、誰にでもある。

短歌の裏に聴こえてくる声がある

読み返してみる。

朝宵に鳴きて寄り来る親子猫こころやさしき時は食をやる(吉田正俊)

結句が何ともぶっきらぼうなこの調べに、吉田正俊の眉は、愁いを漂わせているのが目に見えるようだ。

「こころやさしき時は食をやる」この人間さまの傲慢。冷たくしてしまうことがあるのであれば、最初からやさしくしなければいい、なんて考え方は、これっぽちもないのか。

しかし親子猫との交流を断ってはいない

むしろ

「こころやさし」くなれない時の方こそ気になる。

つまり

<わたし>は、日々を、かなしんでおいでなようで。

明るさに隠れて

枯れ果てし庭芝草のうつくしくもの忘れしに似たる明るさ(吉田正俊)

「天沼」
(逗子養神亭)より

吉田正俊「親子猫」「庭芝草」短歌の裏に聴こえていた声が

あたりが明るくなって、その明るさに、すべてのものは忘れ去られたかの錯覚が、この人生にはたまにないか。

この一首では、「枯れ果てし庭芝草」に、そのような明るさを覚えた。
そして、これを、「うつくしい」とも。

されど

この明るさを歓迎した音階にはとても聴こえないのはなぜ。

なぜ?

きっと、
忘れてはいけない、と課しているものでもあるのだろう。

たとえば、
人が死にました、とか。

なのに
なのに明るい、と

短歌の裏の悲しい声よ

朝宵に鳴きて寄り来る親子猫こころやさしき時は食をやる(吉田正俊)

猫に食べものを与えてあげる心のゆとりを持てない時がある。

枯れ果てし庭芝草のうつくしくもの忘れしに似たる明るさ(同)

世界がこんなに明るいなんてむしろ残酷ではないか、となることだってあるのだ。

(たとえそれがいかに美しくあろうとも)

吉田正俊

吉田正俊は、次のような一首も残しておられる。

吉田正俊「親子猫」「庭芝草」短歌の裏に聴こえていた声が

わが周囲思はぬまでに照る月夜人のいのちは故なく楽し(吉田正俊)

「くさぐさの歌」
(冬の月)より

吉田正俊は、一方で、このような明るさも、短歌にすくあげておられる。

この地に人がいる。
夜であっても月がある。人は照る。

思はぬまで、と。
この世の明度が更新されたらしい。

「楽し」がすばらしい。
それも、「故なく」だ。

「親子猫」と「庭芝草」との非常な違いをおもう。
残酷だった筈の天地がここでは<わたし>を慰謝してやまない。

リンク

短歌新聞社は解散しました。(「短歌新聞」2011年10月号より)


Amazon:吉田正俊『草の露』
参考リンク