
目 次
独り言いひたくなる
ゆるき坂下りゆくとき独り言いひたくなるを今はこらふる(安田純生)
ながらみ書房
『短歌往来』
2025年6月号
「日々の独言」より
一読して身を乗り出してしまう。
「ゆるき坂」でも坂は坂だ。上るよりも下る方が負荷がかかることがある。
そこで、<わたし>は「独り言いひたくな」った、と。これはよくわかる。
「今はこらふる」、これもわかる。よくわかる。
実は、この一首は、連作「日々の独言」の最後の一首だ。
作者・安田純生さんは、こう言いたかったのではないか。
ああイヤだ。
イヤだ
この連作「日々の独言」、歌としてたのしく味読しつつ、大したことでもないのにぶちぶち不平ばっかりの筆者(式守)は、メンタルコントロールの知恵(あるいは技のようなもの)を教わった、
のであるが……。
「ああ厭」を「何でかなあ」に
連作「日々の独言」の最初の一首はこうだ。
「ああ厭(いや)」と叫びてをりし独言を近ごろ替へつ「何でかなあ」に(安田純生)
これはいいことを教わった。
だってそうじゃありませんか。
「ああ厭(いや)」と叫」んでいるのは、迫りくるものに打たれっ放しの印象がある。筆者(式守)に置き換えれば、事実、この姿は、打たれっ放しの姿なのである。
ここを、「何でかなあ」にしてみた、と。
少しゆとりがある。
回避できない敵から一歩退いていないだろうか。敵の剣尖に釣り込まれて自滅する愚はこれで犯さない。
ほれ
ほれ?
役に立ちそうじゃないの
身の養生と食べること
少し補足をしておく。
ありていに言えば、ストレスなんてことであるが。
耐える価値のないことからは逃げ出せばいい。こんなになるまでどうして我慢したのかとも思えよう人との出逢いがたまにある。わーわーこっちが泣きたくなる。
ここではそのような事例とは別の次元の話だ。ちょっとやそっとのことなので投げ出すわけにはいかない。逃げ出せない。そういう話をここではしている。
しかし、
イヤなものはイヤなのだ。
イヤ
この連作「日々の独言」では、生活上の、と言うよりはもはや人生レベルの「厭」への抵抗の断面が詠まれている(と、筆者(式守)には読めた)二首がある。
この程度で逃げ出すのはさすがに社会的に無責任だ。
ではどうする。
自分の不合理を嘆くくらいしないと身の養生をおろそかにしてしまう。で、「厭」を、「何でかなあ」にしてみる。これがまず一つ。
そして
そして?
そのあたりを次に
もっと眠っていよう
つと目覚め腕時計見て午後か午前かわからざれども眠り直さむ(安田純生)

ああ、これもいい。
腕時計の盤面だけでは「午後か午前かわから」ないのである。
いい修辞だなあ。
<わたし>は、ここで、「眠り直さむ」と。このまま眠り通す決意をなされた。
寝逃げと言われる類のあり方ではないわけで……、
ここはもっと眠っちゃうもんね~、と。
これって立派な自己管理だろう。
餡饅とプリン
では、次の一首は、自己管理ができている歌だろうか。
餡饅とプリン愛し始めしは確か食ふなと止められしより(安田純生)
「食ふなと止め」たのはどなたか。
友人か。家族か。医師か。
しかし、禁止というものが誘惑を断ち切れる例は少ないのである。かえってそいつに手を伸ばしてしまうものなのである。
これは自己管理できているとは言えませんね。
アウト。
メンタル的には問題なさげであるが、血圧や血液検査の数値に影響が増悪しようか。どの程度だ。
しかし
程度によってはゆるしてあげてほしいのである。
でないと、筆者(式守)は、酒もたばこも、ますます負い目でいっぱいいっぱいになる。
少しくらいは。
少しくらいは。
安田純生「日々の独言」、一言、おもしろい連作である。



