坪野哲久「菜のはなを挿してくれけり」消滅してなお永遠の美

短歌は安易なところに美を生まない

菜のはなを挿してくれけり如月のさむきゆふべのまなかひ明る(坪野哲久)

邑書林『留花門』(靑圃)より

わたくし式守はただ、この一首の、余すところのない凛冽の気に搏たれて、坪野哲久の「まなかひ」を、時空を超えて共有できる歓喜を覚えるのみである。

「如月のさむきゆふべ 」の美しさ。
容易に発見できる美だろうか……。

さむきゆふべ

「さむきゆふべ」である。

が、この一首に、それ故の、暗く沈んだトーンがあるだろうか。それはただただ「明る」なのである。

「菜のはなを挿してくれ」る時間は、坪野哲久の短歌を装置に、現代と交信して、後世の一読者に、硬質の美を送った。

安易な美と困難な美

坪野哲久「菜のはなを挿してくれけり」

たとえばネオンの光線に射抜かれたグラスがあるとする。
そんなに価値がるか、こんな光線。誰だって、まあきれいだわ、となるだろうに。
衣にゆれる光の斑。木漏れ日の明暗。絹に閃光。

美しいものは、それが容易に出現しているのであれば、詩にはならない。

では、この一首の「さむきゆふべ」はどうか。

真冬には悲劇性がある。
が、「菜のはなを挿してくれ」る、この時間の、坪野哲久の「まなかひ」には、人の一切を溶かした美を見ることができる。

この美は、容易ではない。
いや、けして奇跡で生まれた美でも何でもないのであるが、これを容易に美と認めて、まして短歌になど易々とできるものではないのである。

光学的な美だけではダメ

たとえば次の一首はどうだろう。

満開のさくらのしたの老夫婦かたみに<今>を写しあひたり(春野りりん)

本阿弥書店『ここからが空』
(さくらの落款)より

美しいところに美しい「老夫婦」がおられる。

先の伝で言えば、これは短歌にならない、ということになる。
でも、この光景は、安易な美ではない。ここに至るまでがある。
たやすく獲得された時空ではないのである。

光学的な美しさがあるだけでは、それを、美しい短歌として味読できない。

消滅してなお永遠の美

坪野哲久「菜のはなを挿してくれけり」消滅してなお永遠の美

星邃(ふか)く枯れ葉は花とかがやけり散りなむとする一夜(ひとよ)のきはみ(坪野哲久)

邑書林『留花門』
(落ち葉たむろ)より

「枯れ葉は花とかがや」くも、それは、「一夜(ひとよ)のきはみ」だそうな。
であれば、どうにも刹那的で、この世の生命が軽視されているかに読めないでもない。
むろんそんな歌ではない。むしろ逆。一言で言えば、永遠。

そうあることに安易な美よりそうあることに困難な美に、詩は、自然と向かうようである。

これまで誰も照明を当てなかったところを明るくして、坪野哲久は、ほんとうはそこにちゃんと存在していたのになぜか人の目に見えなかった美しさを短歌にとりだす。

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