棚木恒寿「ただ置かれたる水槽に無傷の水」この水槽は必然か

水槽

日陰にてただ置かれたる水槽に無傷の水は入れられてあり(棚木恒寿)

本阿弥書店『歌壇』
2017.10月号
「蓑虫とお盆」より

ある。
このような水槽はある。

この一首の水槽が珍しい存在でないことを、人は、ちゃんとわかっている。
と思うのであるが、どうだろう。

されど、この水槽から目を離せないのはなぜ。

この水槽がどう表現されたか。
その「どう」であるが、「無傷の水」の措辞以外に、さして特別なものはない。

棚木恒寿氏は、「無傷の水」によって、この水槽の存在を、それだけ確かなものになさったわけだ。

「ただ置かれたる水槽」の存在を

無傷の水

棚木恒寿「ただ置かれたる水槽に無傷の水」この水槽は必然か

日陰にてただ置かれたる水槽に無傷の水は入れられてあり(棚木恒寿)

それにしても無傷の水、って何よ。

腐った水ではない、と?
たとえば、これはあくまでたとえば、であるが、いまさっきまで降っていた雨水?
あ、非常用の水? ただ入れ替えただけとか。

そんなことは知らん

知らないが、でも、水槽の存在は、偶然そこにあった存在に見えなくなった

水は入れられて

三度(みたび)、繰り返す。

日陰にてただ置かれたる水槽に無傷の水は入れられてあり(棚木恒寿)

たまたま?

この水槽に、金魚が泳いでいれば、この一首の存在の力(のようなもの)は、台無しである。
金魚だよ、金魚。
金魚なんて泳いでいたら、<わたし>に、この水槽は、たまたま目に入っただけの存在になっちゃうじゃん。

一過性?

また、この水槽内が、藻屑のようであればどうよ。これも台無しか。
ああ放置しているんだな、それでおしまいだろうね。

やはり
無傷の水

「ただ置かれたる水槽」は、「無傷の水」によって、有限の容積に主観だけで満ちた。
無傷な水と。

日陰に水槽の必然

棚木恒寿「ただ置かれたる水槽に無傷の水」この水槽は必然か

読み返すのもこれで最後。

日陰にてただ置かれたる水槽に無傷の水は入れられてあり(棚木恒寿)

「水は入れられて」と。
それは「日陰にて」であると。

いかにもきれいな金魚がそこにあって、いかにも目につくような場所に置かれた水槽よりもずっと、「日陰」にただただ水がある水槽の方が、人間は、深さがあることを突きつけていないか。
世界の厚みを思えないか。

この水槽は、<わたし>が発見したものであるが、ほんとうにそうか。
そうではない。
そうではない、と思えてくるのである。

水槽が<わたし>を捉えた、と考えてみるのはどうか。
たまたまではなく、一過性でもなく、この水槽はなぜか、<わたし>に、必然の存在だったのである。

かくして、<わたし>もまた、ここに確かな存在になった。
ひいては、読者たるわたくし式守もまた、ここに存在した。

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