高島裕「夜深き駐車場より全天を」自意識を消し去った魅力が

母は財布を失くす

二、三日おきに財布を失くす母。さまざまの場所からわが見つけ出す(高島裕)

本阿弥書店『歌壇』
2016.1月号
「帰郷十年」より

高島裕「夜深き駐車場より全天を」自意識を消し去った魅力

と、詠まれているからには、「母」は、「財布」を、「さまざまの場所」に置いているわけだ。
また、ご高齢ではらっしゃるが、お買い物自体は、問題がないごようすである。

財布の動線がいい。
最後は、息子の手で、母の手へ。

このお母さまと息子であられる<わたし>に、「母」が「財布を失く」さないでくれるよりずっと魅力を覚えられるのであるが、なぜ。

この母と亡き父

財布を失くすのが父であったとしたら、歌人・高島裕は、この一首を、どんな調べにするだろう。
父が財布を失くすとか失くさないの以前に、それを味読する機会はもう得られない。

亡き父の口真似幾度くりかへしゑらぎ更けゆく盂蘭盆の夜(高島裕)

『同』
「同」より

高島裕「夜深き駐車場より全天を」自意識を消し去った魅力

「盂蘭盆」とあらば、お父さまは餓鬼道に、との連想をしないでもないが、たとえ餓鬼道におられても、お父さまは、苦笑の一つもなさってくつろいでおられるのではないか。

「口真似」を「幾度」も「くりかへし」ては「ゑらぐ」のであれば、その息子に。
父として。

お父さまの生前まで目に浮かぶようである。
どんな「口真似」だったかまでは見通せぬが、でも、空しく不平を呑んで世を去った、そのようなお父上ではなかったのではないか。

「財布を失くす」お母さまと、この父は、<わたし>に、さぞいいご両親だったように思えてならない。

毒がないこと

ここまでの二首を並べてみる。

二、三日おきに財布を失くす母。さまざまの場所からわが見つけ出す(高島裕)

亡き父の口真似幾度くりかへしゑらぎ更けゆく盂蘭盆の夜(同)

親なる存在への、わたくし式守とのひらきが、いくらかある

二、三日おきに財布を失くす母。さまざまの場所からわが見つけ出す(高島裕)

財布を、それも、二、三日おきに失くされた日には、わたしであれば、メンドクサイ親だ、ともなりそうなのであるが。

(わたくし式守は)十代で母を亡くしたからそう思うのか

亡き父の口真似幾度くりかへしゑらぎ更けゆく盂蘭盆の夜(高島裕)

もういい大人が「亡き父の口真似幾度」とあることで、この一首は、同性の親からの負荷が、どこにも認められない。
そんなものなのか。

(わたくし式守は)父が九十になりなんとして、基本、達者だからそう思うのか

牧歌的な人生なのか

牧歌的な人生?

親からの受苦の隠蔽?

違う、違うな

受苦のほどが何であっても、この<わたし>に、内は、それだけのご器量がおありなのだろう。

ほれ、
次のような一首が。

夜深き駐車場より全天を仰ぐ、八月の昴を仰ぐ(高島裕)

『同』
「同」より

誰でも天を仰ぐことはある。
しかし、いま、ここ駐車場は、8月である。

父を仰いでおられるのだろう。
盂蘭盆の夜に、父は、しかし、餓鬼道にいない。ここ駐車場の上空、昴におられるのだろう。

日々を送ることに、何かこう達意のあるお姿にも見えてくるのであるが……。

と、そのことの前に……

妻との燦然たる和楽

バイキング全品見事たひらげて朝の光にほほゑむ妻よ(高島裕)

『同』
「同」より

高島裕「夜深き駐車場より全天を」自意識を消し去った魅力

「妻」は、「朝の光にほほゑむ」のである。上句の「バイキング全品見事たひらげて」のワンカットの最後に。

「朝の光」に、これ以上に親和する微笑みが他にあるだろうか、とも思える舞台ではないか。

<わたし>と「妻」が燦然たる和楽につつまれたことで、ここに、先の、「牧歌的」なる揶揄は、見事に潰えた。

すると、先の、何でもないような所作も、やはり……

たかだか一点景であっても

夜深き駐車場より全天を仰ぐ、八月の昴を仰ぐ(高島裕)

高島裕「夜深き駐車場より全天を」自意識を消し去った魅力

先にも引用したが、この一首は、駐車場が舞台である。
奥さまはごいっしょだったのか。お一人だったのか。

いずれであってもいい。
悠然と「全天を仰ぐ」お姿は、この世界の、よしやたかだか一点景でも、ここまでに引いた作品群を背景にすれば、<わたし>の純真無垢な真情にふれられる一首であると言えないか。

されば母の財布を見つけることも

改めて引用したい。
これで最後だ。

二、三日おきに財布を失くす母。さまざまの場所からわが見つけ出す(高島裕)

改めて考えてみよう。
そこに立ち入ること大きなお世話であるが、<わたし>に、子として老いた母に苦労がないのか。

そんなことは知らん

が、「わが見つけ出す」との措辞は、母への、子への疲労などない。幼かった頃のままなのではないか。

高島裕の連作に、小説で言えば自然主義の、さながら競い合うが如き頽廃、現代短歌で言えば、もはや猖獗を極めているかの印象さえ持つ毒の実が見られない。

要らないのだろう。

この一貫したトーンと、このトーンに即したレトリック。
かくして、わたくし式守は、高島裕に、驚嘆をもって憧れの花を咲かせるのである。

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