高松秀明「死にとなりしてすわる」短歌は祈りのための発明品

その短歌の<わたし>を時を超えて愛しむ

新しき世紀ちかづく一日を死にとなりしてすわる礎石に(高松秀明)

角川書店
『五十鈴響(いすずなり)』
(一  滋賀山寺・近江の宮居)より

淡々とした調べである。
が、一読して読み捨てられない存在感があった。

<わたし>は、どこにもそうと書かれていないが、ご高齢なのだろう。事実、ご高齢であられたのであるが。

「新しき世紀」を迎える見込みはない「一日」に、「死にとなりして」おられるご心境である、と。
そして、「すわる」のである、「礎石」に。

ちょっと待って、となった。
「新しき世紀」を迎えさせてあげてくれないか、との。

「新世紀」を迎えられた、わたくし式守に生まれた、これは、祈りである。

高松秀明「死にとなりしてすわる」

うすやみに祈り

うすやみに丸椅子置かれ傷みたるミカンのようなわたしをのせる(古谷円)

KADOKAWA『短歌』
2018.8月号
(スペイン語圏)より

お勤め帰りか。今日という日がこれで終わる。
などとはどこにも書かれていないが、わたくし式守は、そのように読んだ。

その一日を、あるいは、この<わたし>の人生における「丸椅子」に、わたしも、加勢したくなる。

障子の部屋に祈り

障子張り部屋あかるくもなりにけりひとりすわるもいつもの所に(三ヶ島葭子)

創元社『三ヶ島葭子歌集』
大正九年/秋雨より

こちらの一首は、一日の終わりでも、また、始まりでもない。

本日これからも、本日ここまでと同様に、「ひとりすわる」しかないのである。
<わたし>は、「いつもの所」しか居場所がないのである。

哀切であること極まりないのである。

生きていれば、人は、時に、容赦のない閉塞に身を置くことがある。
それを打開もできない現実に啾々の声あるを、人は、この一首に聞く。

短歌は祈りのための発明品

誰がかなしみを救済する。

それは、ありていに言えば、神や仏であるが、ではつまり宗教か、と言えば、そうは言わない。

この国の人々に、神や仏は、輸入されたものである。
が、人智を超えた存在として、太陽と月を崇めてはいた。何かの代替に。

人間では不可能な力を持っているのは、この国の人々には、要するにそのような存在である。

そして、日本人は、太陽や月に祈るのである。
かなしい人をお救いなされ、と。

これは、されど、神や仏とは、その質が異なる。
かくして日本人は、人智を超えた存在に、西洋とは異質であるからか、抗議をすることに抵抗感などない。

あんた何やってんだ、と。ほっといていいのか、と。

短歌は、その祈りや抗議を、遥かなる時空を超えて交信できる、古代の発明品ではないか。

時空を跨いだありがたさ

高松秀明「死にとなりしてすわる」

改めて読み返してみる。

新しき世紀ちかづく一日を死にとなりしてすわる礎石に(高松秀明)

いい一首だ。

「死にとなりして」いることに、<わたし>は、足掻いておられるのか。
そうは読めない。
この「礎石」は、<わたし>に、そして、読者たる式守にも、時空を跨いだありがさがある。

リンク

KADOKAWAホームページ

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(20.07.24現在)

参考リンク