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目 次
大きく動く桜
圧倒的量感となり花群は大きく動く さよならのよう(佐伯裕子)
本阿弥書店『歌壇』
2016.6月号
「感傷生活」より
これは、一本の、大きな桜の木か。
この連作「感傷生活」に次のような歌がある。
桜の木が「大きく動く」と考えてよさそうだ。
春の馬おとなしければ馬場に降る桜の音を聞くばかりなり(佐伯裕子)
子の未来、国の行く末 満開の夜の明けに聞く喘鳴かすか(同)
この国の短歌は、桜を詠んだ名歌が数知れずあるが、就中ここに挙げた三首は、こよなく愛している。
毎年のことなのに日本人は驚くのである
![佐伯裕子「さようならのよう」大きな桜にとって日本の未来は](https://shikimorimisao.com/wp-content/uploads/2024/05/cherry-blossoms-g6932ff9af_640-300x200.jpg)
桜の花が咲きみだれている。
この国の人々は、毎年のことなのに、春になると、桜に新鮮な驚きを持つのである。
なぜいちいち驚く。
なぜよ?
こういうことではないかと
世の中は三日見ぬ間に桜かな(大島蓼太)
そして
悠々としてそこに存在する桜の木を前に、あるいは桜の木の下で、この国の人々は、好きなままにさせてもらえるのである。
日本人を掩ってしまう
![佐伯裕子「さようならのよう」大きな桜にとって日本の未来は](https://shikimorimisao.com/wp-content/uploads/2024/05/cherry-blossom-g29094496d_640-225x300.jpg)
桜の木が聳えている。
桜の木は、花をわっと咲かせると、一枚一枚、花びらをこぼしてしまう。
あたかも日本の人々をすべて掩うかのように。
いったん形を蓄えれば、一枚や二枚散ったところで、桜は桜である。
美しい。
そして神々しくもある。
それは
このように
春の馬おとなしければ馬場に降る桜の音を聞くばかりなり(佐伯裕子)
「桜の音」の「音」とあるが、ここは、身に滲み渡る静寂がある。
桜の音
春の馬おとなしければ馬場に降る桜の音を聞くばかりなり(佐伯裕子)
しかし
先頭に引いた一首はどうか。
「音」がない。
圧倒的量感となり花群は大きく動く さよならのよう(佐伯裕子)
たとえば、たとえばであるが、小鳥のさせずり、とか。
のどかに桜の花の枝から枝に伝ってもいようさえずりは、この一首に、あったのかなかったのか。
聞こえないのだ。
「大きく動いている」のであれば。
生長に邪魔なものはこれを排して、こうもなった、とや。
こういうことではないかと
自然界の公理を絶して、一本の桜の木は、この国の時空を生きてきた。
が、春。
桜は満開になっても、その姿は、たちまち元に戻ってしまう。
これを、佐伯裕子は、「さよならのよう」と。
さよならのよう
![佐伯裕子「さようならのよう」大きな桜にとって日本の未来は](https://shikimorimisao.com/wp-content/uploads/2024/05/spring-g78fabf9c5_640-1-300x200.jpg)
圧倒的量感となり花群は大きく動く さよならのよう(佐伯裕子)
子の未来、国の行く末 満開の夜の明けに聞く喘鳴かすか(同)
月並みな別れじゃないな。
で、来年の春にまた相まみえる、と。
でも、これ、ほんとうか。
ほんとうか?
再会を約したわけではない。
来年くらいはまあまた会えるとしよう。
でも、再来年はどうだ。
ほんとうにまたご対面といくのか。
いったとする。
しかし
次は
翌年、春、桜に、<わたし>は、この国の人々はどう映る。
<わたし>は、この国の姿は、来年は、どうなっていよう。
この一首は、2016年、コロナ禍の前に詠まれている。
一本の大きな桜の木は、今も、この国の地上のどこかで大きく動いている。