岡山たづ子「水仙のうすき緑を」敬愛すること限りなき智徳

どれだけ智徳の高さがおありなのだろう

いちはやく芽をのぞかせし水仙のうすき緑を猫がかぎをり(岡山たづ子)

短歌新聞社
『雪の香』岡山たづ子歌集
「荒地に炎ゆ」抄
(春のいのち)より

「水仙のうすき緑」は「猫」を生み出すのである。
「水仙」は「いちはやく芽をのぞかせ」たが、「猫」もすぐ水仙の芽を発見した。

このような時空を短歌にすくいあげられる観察力は、次のような短歌もこの世に送り出す。

せめてわが明るくあらな北向の窓のあけくれに匂ふものなし(岡山たづ子)

「木の根」抄
(焦土)より

短歌としてももちろんであるが、敬愛に足る智徳をおもう。
痛みに裂かれた光景に目をふさいでいない。

月のような存在を

乱雲霏霏のあいだに、月が、こぼれることがある。
雲が片寄ると、研ぎだされたような月が、そこに、位置していることがある。

この月のような存在を、岡山たづ子は、短歌に収めてしまえる。

この月のような存在を、わたくし式守も、短歌にしてみたい、との切望があるが、それがかなわないことがいかにも無念である。

かつてこどもの時ありて

腹痛の子が背負はれて帰る道今日のわれらは皆おとなしき(岡山たづ子)

「木の根」抄
(冬の匂ひ)より

なぜ「おとなしき」時空が誕生する。濃密な「おとなしき」だ。
なぜの解析など不要だろう。「皆」から外れて無神経な子などいなかった。

こんな一首もある。

色白き子役に名前ききにしがそれより村に来ることもなく(岡山たづ子)

「木の根」抄
(雪のわかれ)より

その人生に、人は、たとえ老いても忘れ得ぬ出会いがある。
その追憶にひとくさりのロマンがある。

ずいぶん時を送った。送ってしまった。
が、時の経過は、無数の反故を選択したが、価値あるものは、糸になった。
糸を、蚕のように手繰る。

その糸は、老いてこそ強靭。

時の果てに老いても

音もなく花踏みてゆく道の辺にわが老年はゆれながらある(岡山たづ子)

「ゆきつばき」抄
(メナム)より

対き合ひて火鉢によりぬこの友も淋しきことを思ひゐるらし(岡山たづ子)

「荒地に炎ゆ」抄
(春のいのち)より

年ごとに衰える。気力も弱まる。
しかし、<わたし>は、智徳の高さを獲得なされた。

濃密な「淋しき」よ。
「淋しき」とある、その文字そのものが、啾啾と泣いているではないか。

「対き合ひ」たる「火鉢」は、もう若いとは言えないふたりの、思い募る無念を溶かす。

一首から一首に流れた時間

岡山たづ子「水仙のうすき緑を」敬愛すること限りなき智徳

その一首にどんなおもいがあるかを知るのに、これは、想像を届かせれば足りるかも知れない。

が、一首から一首に流れた時間を、そのおもいとどう交渉をつなげて生きてきたかを知るには、その歌人の世界に陶酔しなければならない。

せめてわが明るくあらな北向の窓のあけくれに匂ふものなし(岡山たづ子)

「木の根」抄
(焦土)より

「匂ふものな」いそうな。
痛みに裂かれた光景が、ここ「北向の窓」にある。

が、ご自分だってその現実に埋もれていように、<わたし>は、ここぞの熱を生むのである。
敬愛すること限りなくないか。

つらい現実のなかも、岡山たづ子は、内に秘めておいでの熱を、失うことはなかった。

リンク

短歌新聞社は解散しました。(「短歌新聞」2011年10月号より)

短歌新聞社の『雪の香』岡山たづ子歌集はAmazonに在庫はないようです。(21.01.14現在)

参考リンク