森岡千賀子「性別の分からぬ老いと乳飲み子」なんと荘厳な

性別不詳

性別の分からぬ老いと乳飲み子は電車にふかく眠りてゐたり(森岡千賀子)

本阿弥書店『歌壇』
2017.9月号
「ガザニア」より

おじいちゃんかおばあちゃん、どっちなのかわからないお年寄りを見かけることが、たしかにある。
目上の方にナンであるが、何だかおかしい。

また、赤ちゃんにも、かわいいはかわいいのであるが、男の子なのか女の子なのか、はっきりしていないかわいいがある。
ベビーカーに手をかけているママに、どっちです、とも訊けない。

そんなお年寄りと赤ちゃんが、どこかに進みゆく、あるいは、帰りゆく電車の中で、一体となっていたらしい。どちらも眠っていたらしい。

あんまりいい歌で、あれこれ考えること、数多ある

それはもう発熱しそうなほどだ

赤ちゃんのパパとママ

この一首は、パパもママも、出てこない。

しかし、この一首の「老い」なるお方も、赤ちゃんのパパかママいずれかの、そのパパかママなのである。

まさかじいさんが高齢なのを若い女に産んでもらった自分の子ではあるまい。

ダメだぞ、それ、やっぱり

いや、いいのかなあ、それはそれで

でも、ま、そのような歌ではない

老いも乳飲み子も性別は分からないが血はつながっている、と。
この一首に不在のパパとママが、今、地球の反対側にいたとしても、血はつながっている。

だるま落としのいちばん上の顔といちばん下の一枚がくっついたところを見たところのような。

森岡千賀子「性別の分からぬ老いと乳飲み子」なんと荘厳な

何だか荘厳な気に搏たれないか

子であり親であるパパとママはどこに

読み返す。

性別の分からぬ老いと乳飲み子は電車にふかく眠りてゐたり(森岡千賀子)

森岡千賀子「性別の分からぬ老いと乳飲み子」なんと荘厳な

ふむ
読み返したく
なってしまうなあ

乳飲み子

赤ちゃんというのはほんとうにかわいい生き物なのである。

わたしに子はないが、長兄と次兄に子ができて、初めて会った時は、ペロペロなめたくてしかたなかったものだ。吸い付きたかった。
義理の姉に一生口をきいてもらえなくなったら厄介だ、と自身を懸命に抑えたものである。

赤ちゃんは、ゆくゆく、ろくでなしにしかならないかも知れない。そんなことは今は知らない。

しかし

ペロペロすることで、ろくでなしの人生は回避される気がしないか。おれのペロペロで。まじ。

老い

「性別の分からぬ老い」は、こう言っちゃわるいが、ペロペロする気になれない。

が、この一首に生きている「老い」は、ペロペロする気にはなれないが、愛くるしいことこの上ないではないか。

地球の反対側にいるかも知れないパパとママを経由して、今、「乳飲み子」の血は、「老い」に流れている。

しかし

血がつながっているから愛がここに見えたというのだろうか。

そもそもこの老いと乳飲み子がほんとうに血がつながっているのか。自分の子かも知れない可能性があるように全く他人の子の可能性だってあるのではないか。

性別

こうなるともう性別って何よ、ということですよ。

いや、血がつながっていること、赤ちゃんがここにいること自体は、性別あっての自然の摂理であって、これが美しい骨肉の愛でない筈がない。

しかし

もっとこう眺めていてどうのこうのにおける性別って何よ、とそういうことについて、ついつい考えさせられたのである、わたくしは。
ただただ性別のラベリングの意義にも思いが及んだのである、わたくしは。

性別って何よ

森岡千賀子「性別の分からぬ老いと乳飲み子」なんと荘厳な

性別ってほんま何なのよ。

性別

読み返す。
これで最後だ。

性別の分からぬ老いと乳飲み子は電車にふかく眠りてゐたり(森岡千賀子)

電車の中の明かりは、たった今、このふたりの情景にあつまって、周囲のあかるさは、このふたりによってもたらされている。

性別はわからない。それはもうどう見てもわからない。

血は、おそらくつながっているのであろうが、ぜったいにつながっているのか。それだって「分からぬ」かも知れない。

背景が詳しくどうであるか、そんなことはもうどうでもよいのである。

荘厳な光が、ここに、この一首に存在している。

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