香山ゆき江「何処はげまし生きゆかむ」それは同時に歌の姿勢

何処はげまし生きゆかむ

身のほどの何処はげまし生きゆかむ老いの支度も馬鹿にはならず(香山ゆき江)

ながらみ書房
『水も匂はぬ』
(浅黄の空)より

この一首の懊悩を理解できる。
共感することができる。

ここでは深く踏み込まないが、この一首の作者の香山ゆき江は、腎臓が病に侵されている。
病の位相の外でも、苦しみにもまれている。

不謹慎な言い方であるが、同じ懊悩でもわたしの懊悩とは格が違うのである

が、それでも、この一首は、わたしにやはりよくわかる。

死ぬ覚悟はもうできているが、長生きしたい、と言っているわけではないが、自分の、どこをどう励ましていいかがわからない。
が、もう少し生かしてくれ、と。
で、こんな人生でも、最後の印象は、もう少し深いものになるような結末を、と。

「何処」/「老いの支度」

何処を

「身のほどの何処はげまし」の、ことに「何処」が、わたくし式守に、しみじみと滲みわたる。
そう。
「老いの支度」に「何処はげませ」ばいい。

老いの支度

ほんとうにわからない。
「老いの支度」にいったい「身のほどの何処はげまし」たらいいのよ。

ということを理解できるし、また共感もできる。
という年代に、このわたしも、突入したようだ。

でも

「老いの支度」ってたとえば何。

今の限界を超えて、と言ってもよかろう自分をこうも励まして、この世に何を置いておきたい。

たとえば死後のこの世界/生きている確信

川水につづく土手なり斬首刑終りし跡の松風のおと(香山ゆき江)

『同』
(鮎の背)より

香山ゆき江「何処はげまし生きゆかむ」それは同時に歌の姿勢

この土手の下はかつて刑場だったのか。
ここに、結いまわされた竹矢来は揺れて、人々のどよめきもあった。
と思われるが、今は、ここを吹きわたる松風が、蕭々と鳴っている。

自分はまだ生きていることにこうも確信を持てる「おと」も少なかろう。

<わたし>に、「おと」は、余人よりも感覚が研がれておいでのごようすだ。
僭越であるが、病にあって、五感が鋭く研がれたか。

聴覚に限らない話のようでして

五感鋭く/生きているのか疑念が

汗くさき匂ひのついと横切りぬわれひとりなる駅の待合(香山ゆき江)

『同』
(鮎の背)より

香山ゆき江「何処はげまし生きゆかむ」それは同時に歌の姿勢

ここでは嗅覚が研がれている

この汗、どこからよ?

この汗、そもそも何の汗よ?

それはわからないが、でも

でも、人間であることは確かか。
獣の汗と思ったのであれば、こうは詠まないのではないか。あ、いや、獣だったのかも知れないが。
措辞に沿って読めば、やはり人間がどこかに、と思ったのであろう。

匂いはある
しかし、ここには
わたししか

自分が生きていることにこうも疑念を持つ「汗」も少なかろう。

やがて電車が来る。
乗る。
どこへ。

そんなことは知らん

自分の生きている外延を、<わたし>は、自分次第で自在に伸縮していたようだ。
この駅を出発点と読み替えてみるのはどうか。
誰にも、今とは、次への出発点ではあろうが。

なお生きようとなさっておいでである

先頭の一首をここで読み返す。

身のほどの何処はげまし生きゆかむ老いの支度も馬鹿にはならず(香山ゆき江)

<わたし>は、間もなく電車に乗るが、しかし、そう遠くなく降りることになろう。かくして、「老いの支度」を急ぐことに、
なんて結構に見えなくないが、何にしても、この一首は、他の二首とは、神経を張り詰めている、その加減が異なっていないか。

川水につづく土手なり斬首刑終りし跡の松風のおと(香山ゆき江)

汗くさき匂ひのついと横切りぬわれひとりなる駅の待合(同)

と、この二首よりもゆとりが見られる。

先頭の一首をここで読み返す。
これが最後だ。

身のほどの何処はげまし生きゆかむ老いの支度も馬鹿にはならず(香山ゆき江)

この一首は、ほれ、しばし落ち着いて頭の中で考えたことが詠まれた印象を持つ。

それを歌にした。
歌に残した。

これもまた出発点か。
病にあっても、あるいは、病にあるがゆえの。

たとえば、香山ゆき江の作品群も、「老いの支度」に含まれてはいないか。「馬鹿にはならず」とまでの詠嘆は、歌作もあっての詠嘆ではないのか。

香山ゆき江はまさに生きている。

香山ゆき江「何処はげまし生きゆかむ」それは同時に歌の姿勢

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