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目 次
短歌はそこにある人生を共有できる
いづくかに傷をかくしてゐるやうに研磨の石の悲鳴をあぐる(香山ゆき江)
ながらみ書房
『水も匂はぬ』
(石けづる音)より
短歌の話だけでもなかろうが、比喩は、思いがけないものを思いついた、その思いがけなさの指数を競い合っている様相がないか。
揶揄しているわけではない。
もっとおもしろい比喩はないか、それを探してしまうきらいが、わたしも、短歌を読むにおいてないでもない。
ただ、こうは思うのである。
それが目的ではかなしい。短歌を読むのは、比喩の上手を判定するためではない。
痛みが、一首全体を貫いている。
傲慢であろうが、わたくし式守は、この痛みを、時空を超えて共同所有した。
痛みはたしかにご本人のもの
この一首だけでも、作者の香山ゆき江に、痛みにどれだけおもいが豊富にあるかうかがえる。
痛みで一首全体が貫かれている。
「いづくかに傷をかくしてゐる」のも、「悲鳴」も、ご本人のものでもあろうか。
事実、作者の香山ゆき江は、病身であられる。
きのうやきょうの「悲鳴」ではないのである。
香山ゆき江の生きている世界の、これは、摂理になっているのか。
わたくし式守は、自分の生きている景色を、ぐるりと見まわしてしまう。
短歌に補足は不要である
![香山ゆき江「悲鳴をあぐる」一字一音が声をあげて泣いている](https://shikimorimisao.com/wp-content/uploads/2021/08/red-gceac06598_640-300x200.jpg)
読み返してみる。
いづくかに傷をかくしてゐるやうに研磨の石の悲鳴をあぐる(香山ゆき江)
「いづくかに傷をかくしてゐる」そうな。
これは「傷」の説明ではない。「傷」の表現である。
これ全体が「傷」なのだ。
それもほとんどご本人の。
自分でもそれがどこにあるのかわからない傷が疼くことがあるが、そうか、それは、「かくしてゐる」のか。
こんな一首もある。
もう少し生きたからうといふ医師にあと十年とねがふ心は(香山ゆき江)
同歌集(脳外科病棟)より
「痛み」の共同所有
![香山ゆき江「悲鳴をあぐる」一字一音が声をあげて泣いている](https://shikimorimisao.com/wp-content/uploads/2021/08/woman-gf4b8240b7_640-300x200.jpg)
人間とは、運命の力に支配されて、その人生がつくられてしまうところがある。
「傷をかくして」いて、しかし、「悲鳴をあぐる」運命に、人は、逆らうことなどできないのである。
運命との駆け引きに迫られる。
運命はやがて、その人生に、同伴者として迎えられる。
作者の香山ゆき江は、痛みの中で、その人生の、凛冽の気を余すことなく打ち出した。
まだ見えないでいい死が見えてしまう自浄自悶は、悲壮であるばかりか、梵身の業ではないか。
慚愧に堪えない。
この一首は、読者たるわたくし式守の実体でもあるかだ。
では、なぜわたしの実体にもなる
比喩という表現を超えて
![香山ゆき江「悲鳴をあぐる」一字一音が声をあげて泣いている](https://shikimorimisao.com/wp-content/uploads/2020/11/photo-1507624276990-8dc0b35b4c95-300x169.jpg)
一字一音、全てが、声をあげて泣いていないか
わたしは、この一首で、その比喩に圧倒された。このように表現する姿勢に圧倒された。
短歌は、その比喩の力次第で、その表現次第で、そこにのっかった人生を、時空を超えて共同所有してもらえるらしい。