香山ゆき江「悲鳴をあぐる」一字一音が声をあげて泣いている

短歌はそこにある人生を共有できる

いづくかに傷をかくしてゐるやうに研磨の石の悲鳴をあぐる(香山ゆき江)

ながらみ書房
『水も匂はぬ』
(石けづる音)より

短歌の話だけでもなかろうが、比喩は、思いがけないものを思いついた、その思いがけなさの指数を競い合っている様相がないか。

揶揄しているわけではない。
もっとおもしろい比喩はないか、それを探してしまうきらいが、わたしも、短歌を読むにおいてないでもない。

ただ、こうは思うのである。
それが目的ではかなしい。短歌を読むのは、比喩の上手を判定するためではない。

痛みが、一首全体を貫いている。

傲慢であろうが、わたくし式守は、この痛みを、時空を超えて共同所有した。

痛みはたしかにご本人のもの

この一首だけでも、作者の香山ゆき江に、痛みにどれだけおもいが豊富にあるかうかがえる。

痛みで一首全体が貫かれている。

「いづくかに傷をかくしてゐる」のも、「悲鳴」も、ご本人のものでもあろうか。
事実、作者の香山ゆき江は、病身であられる。
きのうやきょうの「悲鳴」ではないのである。

香山ゆき江の生きている世界の、これは、摂理になっているのか。
わたくし式守は、自分の生きている景色を、ぐるりと見まわしてしまう。

短歌に補足は不要である

香山ゆき江「悲鳴をあぐる」一字一音が声をあげて泣いている

読み返してみる。

いづくかに傷をかくしてゐるやうに研磨の石の悲鳴をあぐる(香山ゆき江)

「いづくかに傷をかくしてゐる」そうな。
これは「傷」の説明ではない。「傷」の表現である。
これ全体が「傷」なのだ。

それもほとんどご本人の。

自分でもそれがどこにあるのかわからない傷が疼くことがあるが、そうか、それは、「かくしてゐる」のか。

こんな一首もある。

もう少し生きたからうといふ医師にあと十年とねがふ心は(香山ゆき江)

同歌集(脳外科病棟)より

「痛み」の共同所有

香山ゆき江「悲鳴をあぐる」一字一音が声をあげて泣いている

人間とは、運命の力に支配されて、その人生がつくられてしまうところがある。

「傷をかくして」いて、しかし、「悲鳴をあぐる」運命に、人は、逆らうことなどできないのである。

運命との駆け引きに迫られる。
運命はやがて、その人生に、同伴者として迎えられる。

作者の香山ゆき江は、痛みの中で、その人生の、凛冽の気を余すことなく打ち出した。
まだ見えないでいい死が見えてしまう自浄自悶は、悲壮であるばかりか、梵身の業ではないか。

慚愧に堪えない。

この一首は、読者たるわたくし式守の実体でもあるかだ。

では、なぜわたしの実体にもなる

比喩という表現を超えて

香山ゆき江「悲鳴をあぐる」一字一音が声をあげて泣いている

一字一音、全てが、声をあげて泣いていないか

わたしは、この一首で、その比喩に圧倒された。このように表現する姿勢に圧倒された。

短歌は、その比喩の力次第で、その表現次第で、そこにのっかった人生を、時空を超えて共同所有してもらえるらしい。

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