今野寿美「悪に少しも遠くなけれど」最高の文学作品として

枇杷に濡れる手

悪に少しも遠くなけれど悪なさぬ手はやすやすと枇杷に濡れゐる(今野寿美)

河出書房新社
『【同時代】としての女性短歌』
「されば若夏」より

今野寿美「悪に少しも遠くなけれど」最高の文学作品として

順番を逆にして読んでみる。

手が枇杷に濡れています

その手は悪をなさないそうな

悪の遠くにいるわけではないが

順番を逆にしても歌意は同じ。

その手が悪をなさないとしても悪に近づかないことを意味してはいない

枇杷に濡れてもいい手

今野寿美「悪に少しも遠くなけれど」最高の文学作品として

たとえば人に隠れて、この<わたし>が、ほんとうは、悪の権化だったとする。

その手は枇杷に濡れ得ようか

もちろん濡れよう

しかし

こんなやつの手を濡らすようでは、枇杷がもったいない、とも思えてくる。

悪に少しも遠くなけれど悪なさぬ手はやすやすと枇杷に濡れゐる(今野寿美)

一方

作者・今野寿美は、わたくし式守に、その手が、枇杷に濡れてもいいお人である。
今野寿美の、その手を濡らすのであれば、枇杷も、もったいなくはならない。

なぜ?

悪なさぬ手

今野寿美の手は悪をなさない。
悪をなさない手でさえあれば、その手を濡らす枇杷は、もったいなくないとや。

違う、違う

そういう人の結果の話をしているのではない

もっと内にあるもののこと。

悪なき身ではない自覚がある、ということなのであるが

悪に少しも遠くなけれど悪なさぬ

作者・今野寿美は、ご自分に、愚かしさや悪のあることを、よくご存じなのだろう。

ならば、その愚かしさや悪とはたとえば何だ。

何?

そんなことは知らん

さしあたり、その手は、悪を、なしていない。
いないが、魔魅の掌握に落ちかねないことは、これまでいくたりとおありだった。

そのような告白としての一首とも読めなくはないか

枇杷に濡れる価値のある手

今野寿美「悪に少しも遠くなけれど」最高の文学作品として

読み返す。
これで最後だ。

悪に少しも遠くなけれど悪なさぬ手はやすやすと枇杷に濡れゐる(今野寿美)

聖なる人物を、歴史は、これまでに生み出している。
生み出しているが、ご本人は、ご自分を、聖人などと思ってもいない。
人に隠れた、この世の見えざる悪に、人間が抵抗可能であることを信じられる。

悪をなすとか、なさないとか、その程度では、文学的感動は得られない。

では、枇杷に濡れる価値のある手か否か、その判定は、どこなのよ。
聖人にでもなりおおせとや。

違う、違う

そこまで必要ない

「悪に少しも遠くなけれど」の、この「なけれど」あたりかと

自分がどこまでも凡愚である自覚はあるか

性善説とか、性悪説とか、そんなことは、わたしにはわからない。
そこで悪に手を染めてしまうか、染めないでいられるか。

人間一人一人に、悪が、ない筈がないのである。今、ここに在る生に、悪なき筈がない。
たったそれだけのことを、どれだけ人は、自覚できているか。

人間は、時に、その全人生を自己採点することがある。
たとえば、枇杷は、この手を、どう濡らすか、とか。

どう濡らす?

「やすやすと枇杷に濡れ」ることが、聖人でない者にも、あるんだそうな。

やすやすと

この一首は、ただ有徳の人を、短歌に描いたものではない。と言って、聖人級の人物を描いたわけでもない。
厄介な悪というものをやっぱり抱えている多くの一般人である。

わたくし式守に、この一首は、慕わしかった。そして、わが残りの人生に、最高の文学作品として刻まれた。

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