川崎あんな「やなぎはらみよこさん」こんなにもたのしい短歌

ほらこんな歌はまさに

不思議といへばふしぎにて口にするやなぎはらみよこさんちのぷらむ(川崎あんな)

砂子屋書房『あんなろいど』
(在さらしな)より

川崎あんな「やなぎはらみよこさん」こんなにもたのしい短歌

話を大きくするようであるが、人類の歴史に飢餓が尽きないが、ここに、飢餓と無縁の時空を発見できる。

「やなぎはらみよこさん」のおかげだろうか。
とも思えてくるのである、いや、まじ。

<わたし>に、この「ぷらむ」は、なぜ不思議なのか。
なぜかわかれば歌にしていまい。
なぜかを読んでもおもしろくなるまい。

いいよ
やなぎはらみよこさん
そのぷらむ
たのしそうだ

たのしそうはまだまだあって

まるでお菓子やさんのやうね、ね、と一瞬おもふグミかなんかの(川崎あんな)

(同・(種々の歌 十四))より

川崎あんな「やなぎはらみよこさん」こんなにもたのしい短歌

はっきりと「グミ」なのか。「グミ」のようなものであって「グミ」ではないのか。

どっちでもいい。
ともなるのは、お菓子やさんみたい、なのであれば、もうどっちだっていい。

「ね」の一音に、たのしそう、が溢れている。

そうだね
ここはお菓子やさんだね

ボケとツッコミ

川崎あんな「やなぎはらみよこさん」こんなにもたのしい短歌

しべりあとか知らないでせうろしあのふるいふるいおかしよ うそよ(川崎あんな)

(同・(種々の歌 三十五))より

<「とか」に傍点>

「うそよ」って、あなた、知ってるよ、とツッコミを入れるべきだろうか。いわゆるボケへの礼儀として。

ここは要らない、と思った。

そのへんが短歌だからなのか、余白を残したい、と。ツッコミで余白を埋めないでいい、と。

どこかのこどもにきかせているのか

澄んだ気持ちを

學校の早めにひけて道を行くこども臺風がくるのよ急いで(川崎あんな)

(同・(種々の歌 十三))より

<「急」は旧字>

川崎あんな「やなぎはらみよこさん」こんなにもたのしい短歌

何をぐずぐずしているの、
といらいらと言って聞かせているようすがまったくない。

結句の「急いで」は、有力な説得力を持っている。

結果、言って聞かせているこどもが、あるいは、心の中でそう願っているこどもが、台風という非常事態を理解していないことを、それがフツーだと心得た上での「急いで」であろう<わたし>の澄んだ気持ちを味わえる。

でも
なぜこんなに説得力があるの

旧字・旧かなに本気が見える

休み明けのあすは豐葦原千五百秋之瑞穂ぎんかうに行く(川崎あんな)

(同・(種々の歌 四))より

『古事記』には「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国」(とよあしはらのちあきながいおあきのみずほのくに)『日本書紀』神代上には「豊葦原千五百秋瑞穂の地」(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)神代下には「豊葦原千五百秋瑞穂国」(同上)という記載がある。

『ウィキペディア(Wikipedia)』
葦原中国」より

明日みずほ銀行に行く。ただそれだけの歌なのである。
こうも大仰に言うことだろうか。
それがたとえ短歌でも。

それを短歌にした。
ばかりか、ほんとうにそう口にしていそうにも思えてくるのである、この<わたし>においては。

それは
本気なこと

あきらかに旧字・旧かなによって、このたのしそうの指数は、跳ね上がったのである。

「豐葦原千五百秋之瑞穂ぎんかう」に、
やなぎはらみよこさんは、いっぱいお金を預けているのかなあ。
ぼくも、食べてみたいなあ、やなぎはらみよこさんちのぷらむ。

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