糸川雅子「内海に霧は湧きいん」天の曲(しらべ)として

髪の位置/内の涙

糸川雅子「内海に霧は湧きいん」天の曲(しらべ)として

涙には濡れざる位置にあそばせて垂れ髪はいまの風になびかう(糸川雅子)

砂子屋書房『糸川雅子歌集』/
『水蛍』(花影およぶ)より

「髪」は、「風」の上になく下にない。
「風」の下には、しかし、「涙」がある。

「涙」も「風」に吹かれていようが、この「位置」によって、これを身のうちのかなしみとして、「涙」がいっぱいにあることが目に浮かぶ。

歌人なんて手合いは、「位置」なんて味も素っ気もない語彙で、詩性を強化してしまえるらしい。

かなしみの圧

糸川雅子「内海に霧は湧きいん」天の曲(しらべ)として

桃の果肉裂かんとすればふかき夜のナイフの影は桃におちてく(糸川雅子)

同(同)より

「桃の果肉(を)裂」くことで、身のうちのかなしみを裂く。
「ふかき夜のナイフ」の一閃は、身のうちのかなしみを断てたのか。

との流れで編まれた短歌ではないのであるが、わたくし式守は、そのように読む

「ナイフの影は桃におち」たかも知れないが、この「影」は、肌が粟立つ。

「桃」は、羞(はじ)を包んで、銷魂に廻(かえ)し難い圧を、ナイフに与えている。

ああ桃の果肉

夢の底に見上げる天

糸川雅子「内海に霧は湧きいん」天の曲(しらべ)として

月光(つきかげ)にみしとき鳥ははかなくて眠れば夢の底より翔びたつ(糸川雅子)

同(少年)より

「はかな」い、とあれば、「月光(つきかげ)」は、ぼんやりとした白が色調だろうか。

が、この「夢」はそもそも、ほんとうに夢か。

たしかに「夢の底」にあるのであろう。
が、どこかで「鳥」が「翔」んだ現実が、この「夢の底」に中継されていたのではないのか。

わたくし式守は、「鳥」が皎として「翔」ちぬるを、<わたし>の「夢」にはっきりと見えた。

空、白日にして暗し
鳥、空にはるかなり

天の迷濛

涙には濡れざる位置にあそばせて垂れ髪はいまの風になびかう(糸川雅子)

髪の濡れざる、身のうちのかなしみは、今、どこに吹かれている

桃の果肉裂かんとすればふかき夜のナイフの影は桃におちてく(糸川雅子)

ナイフによって一閃せしも断たれざるかなしみは、これを推し量るに、あまりに痛ましい

月光(つきかげ)にみしとき鳥ははかなくて眠れば夢の底より翔びたつ(糸川雅子)

身のうちのかなしみを、鳥は、天にはこんでくれただろうか

「夢の底」に見えるは天の迷濛か

内海に霧

冷ゆる指胸に組みかえ眠る夜半ただ内海に霧は湧きいん(糸川雅子)

同(橋)より

人間は社会機構の中でこのように明日を迎える。
容易に豁然とはなれない。

それが「霧」だとすれば、人に、この人生は、やはりかなしい。
身のうちの「涙」は「霧」を生み、「霧」は、いつ晴れる。

されど

ここにある「霧」は、安らかなものとはとてものこと言えまいが、糸川雅子は、「霧」を天の曲(しらべ)として、その弦の音(ね)を聴かせる。

そして

われここに安らぐ

糸川雅子「内海に霧は湧きいん」天の曲(しらべ)として

リンク