糸川雅子「かかわりなき位置より」かかわりなきに隠れた詩が

短歌で観測できない空間が顕ちのぼる

かかわりなき位置よりわれの背(せ)な冷ゆる無人の広場歩みゆくとき(糸川雅子)

砂子屋書房『糸川雅子歌集』/
『水蛍』(内の傷)より

一読して、
短歌だなあ、と思うのである。
もちろん失望ではない。

たしかに、日常に、「かかわりなき位置 」なんてものがあって、「かかわりな」いのにそれを強く感知することがある。

でも、それって、具体的にはどんなところ。

「かかわりなき位置」とはたとえば何

感傷癖のある人は、いい大人になっても、「無人」に頭を使うものである。
わたしがそうだ。
そうではあるが、「無人の広場」で「背な冷ゆる」ことはない。あってもそれを「かかわりなき位置より」とは思うまい。

真冬、北風に背中を打たれたか、あるいは、真夏、背中の汗が冷えてきたのか。
いやいやいやいや、「背」の表より内に冷えを覚えたんじゃないか。

「かかわりなき位置」は、上下や左右、前後ではない。
なぜそう考えたのかわからないが、今の時間軸とは別の時間軸に移動した。
などと読んでみるのはどうか。

飛躍が過ぎるか。

糸川雅子「かかわりなき位置より」かかわりなきに隠れた詩が

地中から手が出る

<草稿>邪魔なのか警告なのか足首を地下深くより掴まれている

唐突に
短歌のおけいこをはじめます

ホラー映画あたりにまだありそうであるが、突然、地中から手が出て、だいたいは善人だが間抜けな人が腰を抜かす。

このような感受はわたしにいくらでもあるが、これって、わたしの歩行を邪魔してなのか、あるいは先行きへの警告なのか。

でも、つまんないんだよなあ、これって。
地下から出てきた手に足首を掴まれるアイデアは、つまるも、つまらないもない。

邪魔か警告か、この感受がつまらない。

そして地中に何がある

わたしの「地下深くより」と「かかわりなき位置より」との非常な違いはどうだ。

B級ホラーのまだそんなことを、と脱力させかねないイメージではないか。

地下深くからでもまあいいとする。
そも「手」って誰。

邪魔だとか警告だとか、そんなことよりも。

地中にいる何者かの正体は

<草稿の手直し>地下深く何者かおりわが足がナンタラカンタラホニャラララ

おけいこをつづけています

何者とはまこと何者なのか。

お手本を見直す。

かかわりなき位置よりわれの背(せ)な冷ゆる無人の広場歩みゆくとき

「かかわりなき位置」にいる何者かは、「無人の広場」で、「背(せな)冷」やす存在である……。

わたくし式守のイメージした 「地下深く 」は、「わが足首」 が「掴まれて」しまうような存在ではあるが、こんな紙芝居程度のお化け屋敷に詩はないな。

糸川雅子「かかわりなき位置より」かかわりなきに隠れた詩が

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