五十嵐順子「嫌がる酸素マスクも当てる」何度でも歌える短歌

人間は人間を死なせたくない

ごめんなさいこの世は難儀なところにて嫌がる酸素マスクも当てる(五十嵐順子)

『詩客』「見るのみ」より

人間は、人間を、死なせるわけにいかない。
このテーゼが、こうもわかりやすく腑に落ちた例を、わたしは、他に知らない。

この1首前に、次の一首がある。

七か月の小さき肺がたたかうを計器に見つつ見るのみに過ぐ(同)

早産児は、肺を風船のように膨らませるために必要な肺サーファクタントという物質が、まだ十分作られていないため、呼吸によって空気を十分に取り込めず、呼吸が速くなったり酸素不足でチアノーゼを起こしたりします。

スモールベイビー.com
早産児ちゃんに起こりやすい病気・トラブル/呼吸窮迫症候群より

<わたし>は、ここにおられたようだ。
七か月の子はここでがんばっているようだ。

五十嵐順子「嫌がる酸素マスクを当てる」

相手は7ケ月でこの世界に来た

早産児に、
「この世は難儀なところにて」と諭しておられる。
「ごめんなさい」と。

緊迫した状況であろうに、誕生早々に迎えた試練は、ユーモアで包まれた。

そして、目の前の生命を、何が何でも維持しようとする、そのおもいは、澎湃と伝わる。

早産児に限った話ではない?

死にたがる人がいる。
どれだけ追い詰められているかをおもえば、批判することなどとてもできない。
されど、死の望みに、はいそうですか、とできるわけがない。

その人に、
「この世は難儀なところ」である。
難儀の極みである。

かなしみの感情さえ奪われる。
呼吸することさえ苦しかろう。

ごめんなさいこの世は難儀なところにて嫌がる酸素マスクも当てる(五十嵐順子)

そう、
「この世は難儀な」人あらば、たとえそれが「嫌がる」ものであっても、「酸素マスクを当て」てあげねばならないのである。

酸素マスク?

社会への隔絶感。
社会への無能感。
こちらの方がもっと大きな声でわーわー泣きたくなる身の上があるのである。

ご本人の寂寥に胸を嚙み砕かれる。
されど、木乃伊取りが木乃伊になるわけにはいかない。

たしなめる。

ばかばかばかばかばか

さらに追い詰めてしまうだろうか。
とどめをさしてしまうだろうか。

わたくし式守は、その人に、「嫌がる酸素マスクをつけ」てあげなけらばならない。

ばかばかばかばかばか

ごめんなさい?

「この世は難儀なところにて」に、
「ごめんなさい」が、
須臾の停滞もなくつながる。

「嫌がる酸素マスクも当てる」に際しての「ごめんなさい」であるが、
これは、まこと心からであろう。
だって、生まれたばっかりで苦しんでいるもん。そりゃ心から「ごめんなさい」だ。

でも、
おかしな話ではないか。

「この世は難儀な」ことの、こちらに、何の咎がある。
死にたい望みをかなえてあげられないことに不義理があるか。

そもそもこのように改めて整理してみるいわれがない。

されど

潸然と涙の中にうなだれた「ごめんなさい」に穢れがないのはなぜ。
「ごめんなさい」に渺莫たる大きさを認められるのはなぜ。

まことに
まことに

なぜ?

死なせるわけにいきません!

人の死の望みを全的に認めること。
人の死の望みに負い目をもつこと。

なぜそこまで

知らん
そんなことは知らん

しかし
しかし

五十嵐順子「嫌がる酸素マスクも当てる」何度でも歌える短歌

ごめんなさいこの世は難儀なところにて嫌がる酸素マスクも当てる(五十嵐順子)

生きていてもらいたい。
寸心でいい。
届け。

冷たい風をくぐるように生きていても、こんな歌を聴くことがあるのもまた、この人生なのである。
何度でも歌える歌。

畢竟、
永遠の歌。

永遠の歌

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