橋本喜典「この日の三度目を」結句をいかに魅力的にするか

迷惑電話に腹が立っただけの話なのに

勧誘の電話この日の三度目を下ろしてひとり怒りつぶやく(橋本喜典)

本阿弥書店『歌壇』
2017.2月号
「天地」より

迷惑電話が腹立たしい。要は、そういう内容だ。それだけだ、とも言える。
それだけを、短歌で、おもしろくすることができる人はできるのである。

「この日の三度目」らしい。
一度目は寛大にもなれようが、「三度目」じゃなあ。二度目はどんな具合だったんだ。
「三度目」が、この短歌に、そのおもしろさを補強しているようだ。

でも、「勧誘の電話」は、何の「勧誘」だったんだ。その情報があれば、この短歌を、もっと補強するのか。
おそらくしまい。が、「三度目」は不可欠なようだ。

ただそれだけだが……

橋本喜典「この日の三度目を」

そのどれでも、ではないが、短歌は、どうもこのようにつくられるようなのだ。
<わたし>は、〇〇した、と。ただそれだけを。
で、その○○をいかに表現するか。その表現次第で、おもしろくもつまらなくもなる、と。

その内容○○に、高邁な要素などこれっぽちもない。○○した、ただそれだけ。

が、読後に、○○した、たったそれだけの話に、自分が見直されることがある。自分の心と姿を新しく持ち替えられることがあるのである。

たとえばこれも/橋本喜典

花の名を知らざるままにたのしむは礼を欠くかと図鑑にさぐる(橋本喜典)

本阿弥書店『歌壇』
2016.2月号
「どこからでも来い」より

花の名を調べる。ただそれだけ。
でも、どうしてこれがおもしろい。そして、どこがおもしろい。
「礼を欠くかと」なんてたいそうなお考えでらっしゃるから?

たとえばこれも/沖ななも

わが首は縦に振るほうがたやすくてまたも財布を開けてしまえり(沖ななも)

北冬舎『白湯』
(ひとびと)より

また買い物をしてしまう。ただそれだけ。
でも、これがこうして短歌になってみると、一言、おもしろい。
「わが首は縦に振るほうがたやす」い、との都合のいい言い訳が?
あたかも自分は迷惑しているとばかりの「またも」も何だかおかしい。

たとえばこれも/長沢美津

かへり路の旅の終りのひとときを眠りをはりて地図をたたみぬ(長沢美津)

新星書房『車』
(帰路)より

「地図をたた」んだ。
このただそれだけに、こんなにも抒情が……。


水の底にしづみてゆきし池の鯉をあともどりして真上よりみる(長沢美津)

同・(こよみ)より

「池の鯉を」「真上よりみる」ただそれだけ。
わざわざ「あともどりして」まで。
いったいなぜ。

たとえばこれも/松平盟子

さみだれはうすらに寒しひと日われ煙となりてうずくまり居り(松平盟子)

河出書房新社
『たまゆら草紙』
(夕白桔梗)より

「うずくま」る。ただそれだけ。
そして、「煙とな」る。
「煙」だよ、煙。でも、わかる。

たとえばこれも/俵万智

「クロッカスが咲きました」という書き出しでふいに手紙を書きたくなりぬ(俵万智)

河出書房新社
『サラダ記念日』
(待ち人ごっこ)より

「手紙をかきたくな」った。ただそれだけの、どうしてこれがおもしろい。
その書き出し一行を書きたいがだけをモチベーションに手紙を書く。でも、わかる。

MEMO

俵万智さんについての、この記事は、わたしが、短歌の世界に足を踏み入れるきっかけになったコラムです

第1関門

自分も短歌をつくろうとなって、世に出ている秀歌には、その完成作品を前に、作者が何だかケロリとした顔をしておいでのような印象があったものだ。
(それは今もある)

そこを、わたくし式守は、とりあえず5・7・5・7・7にしたはいいが、ガッチガチに仕上がった自作を前に、ゼーゼー息を吐いているかだ。

だが、5・7・5・7・○○をする。
結句を○○する、にしてみると、「ガッチガチ」は緩むのではないか。

次のハードル

○○をする、のここ、結句、たとえばどんな表現か。

図鑑にさぐる

花に礼を欠くから図鑑にさぐる

財布を開ける

首が縦に振るほうがたやすいから財布を開けてしまう

地図をたたむ

かへり路の旅の終りのひとときを眠りをはりてからたたむ

池の鯉を真上よりみる

わざわざあともどりして真上よりみる

うずくまる

煙となってしまってうずくまる

手紙を書く

「クロッカスが咲きました」なんて書き出しで手紙を書く

そうとわかれば/しかし

○○するの、その○○には、さほど表現の負荷をかけることなどないらしい。
その○○に比重が置かれるように仕上げればそれでいい。

しかし

口で言うのは簡単だ。
極意とは難物である。難物の極み。

橋本喜典「この日の三度目を」

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