花山周子「もちろんだとも薔薇の如くに」大好きなわが子よ

好き?

お母さんあきちゃんのこと好き?と聞くもちろんだとも薔薇の如くに(花山周子)

『短歌』(2016年)1月号

本阿弥書店『歌壇』
2016.12月号
<2016年を象徴する百首>
上村典子選今年の十首より

花山周子「もちろんだとも薔薇の如くに」大好きなわが子よ

子どもはこんなことを母親に確かめてみるものだ。
母に、わたしも、こんな質問をしたことがあった。
半世紀以上も昔の話であるが。

答えはわかっていたか。
わかっていた。
でも……。

でも、100パーセントの自信がない。
もしかしたら……。

もしかしたらしかたなくわたしの母でいてくれるだけなのかも知れない。

この世界が、母が死ぬような世界になれば、自分も死ぬ、と思っていた。
ずっと病に苦しんでいた母は、わたしが19になると、あっけなく死んでしまった。
わたしは死ななかった。

聞く

早速、読み返す。

お母さんあきちゃんのこと好き?と聞くもちろんだとも薔薇の如くに(花山周子)

母と娘の、これは、どこにでもあろう場面である。
たぶん。
花山周子さんの「あきちゃん」とわたくし式守だけにあった話なのかなあ。

そんなことぁないわな

「聞く」一つに、思うことが、いくらかある。
さしあたり以下の3点が。

「あきちゃん」がきく?

「あきちゃん」が、「お母さん」=<わたし>=花山周子さんの、
その答えをきく、
つまり「訊く」と読み替えられる「聞く」なのか。

花山周子さんがきく?

母=<わたし>=花山周子さんが、「あきちゃん」の、
この問いをきく、
の、その「聞く」なのか。

どちらでもいい?

どちらでもいい。
母が子の声を、子が母の声を、何の疲労もなく聞いているのである。

もちろんだとも

花山周子「もちろんだとも薔薇の如くに」大好きなわが子よ

娘さんに、花山周子さんは、こう言ったのである。

ほんとうのほんとうにこれ以上のおもいはない気持ちを。

愛というものの、これも、一つの定義になりそうだ。
これ以上の好きはない、という好き。

もちろんだとも、と

だとも、と

この「だとも」は、かつて母なる人が生きていて、その人の子だったことがあるわたくし式守の胸を撃ち抜いた。

薔薇の如くに

再び読み返す。

お母さんあきちゃんのこと好き?と聞くもちろんだとも薔薇の如くに(花山周子)

「薔薇の如く」であるとの、これは、先の「聞く」のような、ああかこうか、あれこれ思う余地はない。
「あきちゃん」は「薔薇の如く」なのである。
「あきちゃん」を「薔薇の如く」だ~~~いすきなのである。

「あきちゃん」は女の子なのだ。

薔薇は女子、としてしまうのは、つまらないラベリングだろうか。

現代は、男について、女について、その美質を説いたのに批判されてしまうことがあるが、そのへん薔薇だから女の子ってアウトなのか

夢みながら 愛しながら
薔薇より美しい

布施明『君は薔薇より美しい』
作詞・門谷憲二

たとえばこの曲。

この曲が、その歌詞をアタリマエに聴けるのは、薔薇は美しく、女性の美しさに薔薇をイメージするのは合意事項だからである。

されど

薔薇は価値のある花か

ある。
やはり。

薔薇は、その実体は、いつしか枯れよう。
しかし、花山周子さんの薔薇は、合意事項を超えた、永遠に美しい花である。

薔薇の如くではチープか

よく目に耳にする修辞である。
薔薇のように、というたとえ。

チープでないかい?

そんなことはない

そんなことはないぞ

こんな歌に意外なたとえをされてみろ。

病気になってしまいそうなほど好き~

かわいい小鳥さんのように好き~

ぜって~ね~よ。

再生

花山周子「もちろんだとも薔薇の如くに」大好きなわが子よ

もちろんだとも薔薇の如くに

この修辞は、わたくし式守の母を、母との、つい暗くなりがちな思い出からもぎはなすように再生させた。
その手とその声が、花山周子なる歌人のただ一首で、甘やかに蘇ったのである。

花山周子「もちろんだとも薔薇の如くに」大好きなわが子よ

母がまだ、手足に、不自由はない時代だった。
「おかあさん、ぼくのこと、好き?」
「そうねえ、う~んとね~」
「……」
「大好き~」
母はその手で、わたしのからだを、あちこちくすぐった。

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