三井修「最後の一粒」大好きな一首を何度も書き写してみると

この短歌を書き写すぞ

ドロップの缶を逆さに振りて出す最後の一粒薄荷味なり(三井修)

角川学芸出版
『海図』(新玉葱)より

ついに最後の一粒。
薄荷味だ。

生きるにおいて忘れてはいけないものがある。
言い過ぎか。言い過ぎじゃない。

あたしゃ好きじゃないけど、薄荷味。

精神的な疲労があっても、三井修の歌は、わたしをたのしませてくれる。
いいなあ、そういうのって。天賦の才みたいで。

で、この一首を、わたしの歌作に役立ててみよう、と考えるわたくし式守である。

わたしは几帳面

わたしの天賦の才と言えば、やっぱり几帳面なことかなあ。
たとえばこうである。

三井修「最後の一粒」大好きな一首を何度も書き写してみると

どうよ、これ。
キャップの嵌め方が完璧じゃないか。
ボディの文字の、こっちへの向きがそろているよね。

でも……、
「天賦の才」か、これって。

が、
几帳面は几帳面である。それはたしかだ。
それを活かして、三井修の一首を、あれこれ解剖してみてはどうだろう。

すこしでもうまい歌い手になれるかも知れないじゃん。
がんばるっす、おれ。

解剖する

ドロップの缶を逆さに振りて出す(上)
最後の一粒薄荷味なり(下)

ドロップの(5)
缶を逆さに(7)
振りて出す(5)
最後の一粒(7+1)
↑無理々々「一つ」(3音)にしない方がいい
薄荷味なり(5)
↑「なり」がいいんだよなあ。
なんかなあ。
なり、なり、なり、なり、なり。

「逆さに振」る→「最後」→「薄荷味」
↑「最後」なんだよなあ。
最後、最後、最後、最後、最後。

おお
なんだか
スッキリしてくる

あたしゃ好きじゃないけど、薄荷味。

ひらがなにする

どろっぷのかんをさかさにふりてだすさいごのひとつぶはっかあじなり

三井修「最後の一粒」大好きな一首を何度も書き写してみると

うっとり
いい調べだなあ

反復する

ドロップの缶を逆さに振りて出す最後の一粒薄荷味なり

何が言いたい

と、
好きな歌では、
そんなこんなを、わたしは、繰り返している。

……?

何の役に立つんだ、これ?

わたくし式守としては、要するにですよ、これを基礎トレーニングとして、自作を望むカタチにする上で、言わば本番ですね、これがいずれ扶けになったらいいな、と。

で、なるのか、それで。
ならなかったらどうする。
結果を得られないことを繰り返すのであれば、好きな酒をしこたまのんで、のんきに余生を送ったらいい。
それだって人生の一つの見識だ。

魔がさした?

そもそもである。
うまい歌い手って何よ。それもわかっていない。
徒労を生きるとは、まこと困難な道である。

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