石川啄木「大という字を百あまり」トライ・アンド・エラーを

啄木と同じことをしてみる

大(だい)という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来きたれり
(石川啄木)

『一握の砂』

短歌っておもしろいな、
となっても、知っている歌人などほとんどいなかったのである。

幾人かは知っていたが、それは、わたしに、ぼんやりとだった。
誰を読めばいい。
つまらなそうだ。

石川啄木は、まあせっかく興味を持った記念に手に取った。

そして、石川啄木は、今こそ歌作に役立つ気がして、気合を入れて、読み直してみた。

わたしは真面目

「まじめ」を漢字で書けなかったわたしは、帳面に繰り返し書いて練習したもんである。

石川啄木「大という字を百あまり」

このようにして書けるようになった。

まじめでないとまじめを漢字で書けないのである。
なんて考え方からしてまじめである。

キュークツな人間だなあ

多少の、しかし、要らざるレイアウトが、これまた愚かしい気がしないでもないが、おお、これだ、これ。これを歌作に役立ててみよう。

「大」を百あまり書いて短歌の役に立つか

書いてみた。
うまい歌い手に近づけただろうか。

石川啄木「大という字を百あまり」トライ・アンド・エラー

途中「木」を書いてしまった。
よっぽど一文字目から書き直そうかと思った。が、少しは真面目じゃないでいてみよう。
からだに毒だ。

「大という字を百あまり」書いて思ったことは、追体験はさして歌作に有益でもないらしい、ということ。
最初からわかっていた結果のような気がする。

実際に「砂」で書けばまた違うのか。
どうだろう。
でも、こんなことはもうしない。

短歌が上手になるのに何が役に立つのだろう

大という字を百あまり紙に書き歌をつくるをやめてやめてしまえり

石川啄木「大という字を百あまり」

いいな
いつかは
上手になれそうな人

何が言いたい

と、
好きな歌では、
そんなこんなを、わたしは、繰り返しているのである。
が……。

ったく何の役に立つんだ、この徒労。

わたくし式守としては、要するにですよ、これを基礎トレーニングとして、自作を望むカタチにする上で、言わば本番ですね、これがいずれ扶けになったらいいな、と。

いい歌がつくれたらいいな。
ここまではいい。
いい歌をつくるために何をしたらいいのか。

何かで成功を収めた人は、異口同音に、トライ・アンド・エラーの繰り返しを説いているが。……

トライ・アンド・エラー

エラー×∞……。
こんなんでモチベーションは維持できるのか。

維持できない、
と思うことが多々あるが。

真面目だから何度もエラーに耐えてはいる。耐えられてもいる。

ただ、そこに意味はあるんですか、ということですよ。

努力が結実する可能性が高ければ、そりゃ意味があろう。
ないのよ。ない。

が、わたしの人生に残された時間には、もうこれしか方法が残っていないのである。

トライ・アンド・エラー
エラー×∞

徒労を生きるとは、なんと困難な道であることか。

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