田中槐「いまどきキムタクにしか」一首の奥行に<わたし>

女と男の名誉

プライドがそんなに大事? そんなものいまどきキムタクにしかないのに(田中槐)

砂子屋書房『サンボリ酢ム』
(王様を捨てる王妃のものがたり)より

おもしろい。
男に言っているのだ。

プライドに性差はない。
男女ともに持ち合わせているものである。

しかし、そこに特化した教育などいっぺんも受けたことがないのに、男は、恥を残すまいとする。
これが後の恥として残らぬ手当てをするのである。男としての。

では、花も名誉も女にくれてやれ、と言えば、それもまた違う。
それはそれで、女の方のプライドに障るであろう。

「禅問答」

田中槐「いまどきキムタクにしか」

飼ひ犬の名前のことで喧嘩した「あなたは犬に愛が足りない」(田中槐)

「あなたにはわたしの愛が足りない」と禅問答のやうな言ひ訳(同)

「愛が足りない」って、あなた、では、「愛が足り」ているのは、どんなお名前なんですか。

男は、ちょっとおもしろい観察を得ると、ひとつ腹ごなしにと、その観察の結果を傾けてやまないところがある。

いい迷惑だなあ

こっちの寛大さに寄りかからないでくれないかなあ

だから男は愚かしい

とは言わないが、でも、ほれ、言い返されているではないか。

女の方も愚かしい

つまり、事は、犬の名前の話ではない

陰性な準備

背を向けてテレビを見てゐる聞き慣れた飲み込むやうな笑ひ声とか(田中槐)

作中主体は、これから離婚する夫であるが、この場面の、この余白の、この陰性な空間はどうだ。
そこでの<わたし>の、罪はないが、陰性の心情が、わたくし式守に迫る。

女の、男への、何らかの、陰性の、準備の間がある。

そして、『サンボリ酢ム』を、式守は、閉じなかった。閉じられなくなってしまった。

「短歌」を支える<私>

田中槐の『サンボリ酢ム』に、このような指摘がある。

本歌集には「連作ごとに起動する〈私〉」がまるで短編集のように立ち現れている。しかしこれがほんとうに短歌を支える〈私〉でありうるのかというのは改めて考えなくてはならない問題である。また題詠・連作重視という作歌態度は、一首の屹立性の低さと愛唱歌の不在につながることもまた自明だろう。

橄欖追放
東郷雄二のウェブサイト
第89回

田中槐『サンボリ酢ム』より

これは卑屈でもなんでもない。
わたくし式守は、こう言われてしまうと、なるほどそんな「問題」があるか、となってしまう。

「改めて考えなくてはならない問題」として、わたしに、わたしなりの短歌論を構える論点にはする。

しかし

するが、しかし、わたくし式守は、田中槐の『サンボリ酢ム』は、あくまで短歌をたのしんだつもりなのであるが。

一首ごとの余白に奥行きがあるからである。
その一首に描かれた場面だけを切り取れるからである。

その余白とはたとえば何だ。
たとえばこの一首の余白に、何事もないわけがない<わたし>の人生がぺたりと貼り付いた<わたし>固有の陰翳がある。
などと考えてみるのはどうか。

それこそが、<わたし>なのではないか。
ということなのであるが、であれば、この連作は、あたかも三人称単数の視点で描かれた、夫が主人公の物語であるかであるが、あくまで一人称単数の、<わたし>の視点の、どこまでも短歌でしかない短歌がまずありき、なのではないかと。
どの短歌も、その奥行に、同一の<わたし>がいるではないかと。

そして、この一人称単視点であるところの、どの<わたし>にも、偽装のご自分はいないこと。他者への虚飾などどこを探しても見当たらない潔い姿勢は、昨今の、<わたし>に責任を持ちたくないかの作品群を圧倒している。

などといったあたりを、ここでは、深く掘り下げるまではしない

さて

わたくし式守は、『サンボリ酢ム』の<わたし>を支える短歌群をいくたりと読み返して、いったんであるが、次の結論を得たのであるが……。

自分が「女」であることを認めるが、「男」の欺瞞も許さない

キムタクだけじゃなかった

プライドがそんなに大事? そんなものいまどきキムタクにしかないのに(田中槐)

<わたし>に、ふたりをめぐる世界がもろくも崩れたなかで、「男」に驚いたごようすがある。

これがまずおもしろかった。

ご自分にある「女」の内という内を硬く凍結してはみたが、お相手の「男」の内には、一転して外に見えない炎があったようなのである。

これを驚かないでいられようか。

という<わたし>が、わたくし式守は、おもしろかった。
ただこの一首だけで、短歌というものが、ただただおもしろかった。

いのちの消耗

飼ひ犬の名前のことで喧嘩した「あなたは犬に愛が足りない」(田中槐)

犬の名前はどうしようね

ポチなんてありきたりだよ~~

それじゃ愛が足りないよ~

ぬぁんて歌じゃないんだよなあ

すでに「飼」っている「犬の名前のことで」、いまさら「喧嘩」をしてしまうのである

仲の良いご夫婦の、犬の名前のことで意見が合わない微笑ましい光景、そのようなおめでたさとは対極にあるのである。

プライドを守る。
たいせつなことである。
されど、それは、妻や恋人よりも自分の社会への体面を最優先していることでもある。

お相手はいずこ

「犬の名前」をめぐるおふたりは、もはや石油(=イラク)をめぐる大国間に等しい。

美しい幻影ももうない

田中槐「いまどきキムタクにしか」

リンク

MEMO

「橄欖追放 東郷雄二のウェブサイト」は、歌歴の長い人には夙によく知られているサイトです。
短歌を始めたばかりの方がせっかく興味を持った現代短歌を採取するのに、このサイトは、必ずや役に立つかと。
東郷雄二氏は京都大学の名誉教授。フランス語学、言語学がご専門です。