田中槐『サンボリ酢ム』法律と短歌は殺意をどう言語化するか

殺意は言語化されて短歌にできるのか

人生なんて分かれ道ばっかりなのである。
しょっちゅうぶつかる分かれ道を、自分の夢や希望を飽和させて、都度、そのからだをくくっとどちらかへ押し出す。

ところが、押し出した先は、凶悪犯罪があるのに、これを回避できない少年がいる。

田中槐は、これを、 砂子屋書房『サンボリ酢ム』 の中で、それは連作としてであるが、短歌に収めた。

田中槐の『サンボリ酢ム』は、記事にしたものが、別にあります

これはその姉妹編です

殺意の証明

田中槐『サンボリ酢ム』法律と短歌は殺意をどう言語化するか

汗ばみし手にビニールを巻き付けてふたたびひもを「くっ」と引きたり(田中槐)

砂子屋書房『サンボリ酢ム』
(みんみんがいんいんと鳴く)
山口県徳山工業高等専門学校同級生殺害事件のあつた夏

殺人か傷害致死か、量刑は、殺意の有無を問う。

殺すつもりはなかった、
と言ったって、たとえばその刺し傷が、死ね、と思っていない刺し方とは言えない刺し方であれば、殺意があった疑いが濃厚となる。

死ね、と思っていない人が、こんな刺し方をしますか、というわけだ。

「汗ばみし手」の者は、「ひもを「くっ」と引」いたそうな。
殺意のなき供述をしても、それを認めてもらう可能性は、「くっ」で完全に閉ざされる。

非短歌的殺意の証明

言語をカテゴライズするとして、短歌の言葉もあれば、法律の言葉もあろう

これは、「山口県徳山工業高等専門学校同級生殺害事件」の判例ではないが、殺意についての法律的判断を、裁判所は、このように言葉にする一例として……。

(前略)
被告人が,包丁を用意し,強盗目的で被害者方に侵入した上,就寝中の被害者を殺害しなければならないきっかけが全くうかがわれないのに,いきなり,かなりの力を込めて,その首に包丁を刺突し,確実に,かつ,即座に死亡させたこと,そのような殺害態様や室内に人がいることが予想し得る状況からして,被害者を見付ける以前から状況次第では人を殺すこともやむを得ないと考えていたと思われること,被害者方への侵入時に殺意があったとは確定し得ないが,被害者を見付けた段階では極めて強い殺意があったと認められること,手っ取り早く金を得たいという強盗目的を遂げるため,抵抗する余地さえない被害者を一撃で殺害し,すぐに布団等を首等にかぶせて血が飛び散らないような策を講じていること,殺害後に金品が保管されていそうな場所のほとんどを物色していること等を指摘した上で,自己の利益だけを考え,人の命という最も重要な価値を極めて軽くみた冷酷非情な犯行
(後略)

事件番号 平成23(う)773
事件名 住居侵入,強盗殺人被告事件
裁判所 東京高等裁判所 第10刑事部
裁判年月日 平成25年6月20日
結果 破棄自判
原審裁判所 東京地方裁判所
原審事件番号 平成22合(わ)34

動機の不在

田中槐『サンボリ酢ム』法律と短歌は殺意をどう言語化するか

いけないのは君のはうだよいつだってあはれむやうにボクを見てゐた(八月二八日/事件発生)

「ボク」は、こう考えた。
動機らしい動機とすれば、このあたりか。

外から遠く見つめるだけで血に波が立つ、それだけで甘美になれる、そのような恋ではなかったらしい。

法の世界で、その筋の専門家は、これを補足するだろう。翻訳するだろう。

判例と短歌の、どちらの言葉が、少年と少女の真の表情を写し出せるのだろう。

が、判例と短歌の、そのいずれであっても、そもそもこれを、動機にあたるとできるものなのだろうか。

言い訳にもならぬ、との解釈しかしないようでは、法の世界でも、短歌の世界でも、言葉は持てない。

過程の蒸発

田中槐『サンボリ酢ム』法律と短歌は殺意をどう言語化するか

触れたしと願ふ思ひを拒まれて現実的な何かが切れた(八月二八日/事件発生)

法の世界で、その筋の専門家は、これを補足するだろう。翻訳するだろう。

その必要がある。
これでは、極刑も無罪も決められませんよ、というわけだ。

短歌の世界ではしかし、少年と少女の表情は、無慈悲に照らし出された。

「現実的な何か」の「何か」とはたとえば何。
わからない。
だが、「現実的な何かが切れた」こととの因果関係で、青春の光沢は、無惨に、しかし、鮮やかに展かれたのである。

されどここで誰が知っていたであろう。
その遠くを既に魔雲が覆っていたことを。

少年犯罪

田中槐『サンボリ酢ム』法律と短歌は殺意をどう言語化するか

事前には名もなきひとりの少年が事後に名前をさらに消さるる(八月三一日/指名手配)

「名もなき」を、わたくし式守は、非有名人とは読まない。

成人すれば、その道で、あるいは、そこがいかに狭い世界でも、聞こえた者になることがある。

いわゆる世に出た人ではないにしても、名前とは、そのような指数を可視化するのである。

法を犯した少年が名を伏せてもらえるのは、その指数が、いい方に振れるチャンスを奪わないためである。

これを、「さらに消さるる」との表現をして、少年犯罪における、実名報道の是非ではない、ただただ真実を衝く加減のよさを、わたくし式守は、田中槐の美質だと考える。

老いやすき少年なればあらかじめ不定冠詞をつけて放ちぬ(同)

「さらに消」す具体的な手段として、「不定冠詞をつけ」る、との表現がある。

が、この一首は、それプラス「放ち」が、「不定冠詞」と拮抗しつつ耳に鋭い和音となっている。

現実に少女を殺す、それも、「ひもを「くっ」と引」いてしまえる少年を、その名の扱いがいかなるものであっても、猛獣を市街地に「放ち」ているに似る。

「老いやすき」は、「少年」の枕詞か。直截な連体形とも思われないが。
たらちねの→母
ちはやぶる→神

老いやすき→少年?
なるほど。
枕詞が象徴であるならば、この一首の「少年」に、これほど秀逸な枕詞はないな。

少年犯罪におけるパラダイムの変化は、短歌の世界において、田中槐のこの一首で、さりげなく斬り込まれれた。

蝉の鳴く夏

田中槐『サンボリ酢ム』法律と短歌は殺意をどう言語化するか

ダイエーでビニールひもを買ふときにほどよき太さを求めただらう(八月三一日/指名手配)

少年は、事実として、その「ビニールひも」の適否を判定したと思われる。

腐敗してゆくのをきつと見てたはず その木の上でたましひのまま(九月七日/遺体発見)

その「ビニールひも」で自死を遂げられた。

少年は、やり遂げられる子ではあったのだ。
この世の、それは、あまりに不毛な遂行の力であったが。

「見てた」主格は誰だろう。

近くまで君が来てゐた「許さない」さうだねボクも許したくない(同)

「見てた」主格は「君」であるようだ。

このあたりは、田中槐の創作の域内である。
が、根も葉もない心象ではない。

この創作を、わたくし式守は、成功を収めている、と考える。

少年は、こんな形でしか少女と交感できなかった。
少女は少女で、そもそもそれを望んでさえいない相手とこんな交感を得た。

人間からすれば、であるが、蝉は、はかない生命である。
が、「その木の上」は、牧歌的な心情など寄せ付けない、蝉に等しい夏だった。

なるほど、蝉(みんみん)は、陰々(いんいん)と鳴くしかできない夏だったのである。

「黄色いテープ」の内と外

田中槐『サンボリ酢ム』法律と短歌は殺意をどう言語化するか

砂子屋書房『サンボリ酢ム』の、この連作(みんみんがいんいんと鳴く)の背骨を貫いているのは、少年犯罪の、そこに至る意識の変奏である。

相手の少女をいかに好きであっても、少女の先にあるものを認めたくないアンビバレントな心情である。

この国は、幸福などそもそも望めない、とあきらめかえっている若者が少なくなくなってきたが、ここに、少年の殺人行為が生まれると、あたかもこれこそがてっとりばやい青春にもみえてくる。

暑過ぎた今年の夏を区切るごとKEEP OUTの黄色テープ(九月七日/遺体発見)

「区切」られた「今年の夏」を、道を踏み外す、と読み替えても軽率ではなかろう。

夕の、曖昧模糊とした、しかし、金色の空の下で、ゆらゆら揺れているのが目に見えるようではないか。

若者の、その多くは、いかに未来に夢を描かなくなったとしても、殺人を犯して、「黄色いテープ」の内に入ることはない。

しかし、不幸の母胎は、「黄色いテープ」の外にあって、この「黄色いテープ」の内に閉じ込められてしまう少年がいるのである。

されど、それが青春というものであるかのように、「黄色いテープ」で、その光は、「区切」られてはいない。
判例と同程度に、短歌もまた、その言葉は、「黄色いテープ」によって自由を奪われない。

言葉とは何?
まこと何よ?

統計では少年犯罪が減少しているのに、「黄色いテープ」は、むしろ今こそ目立つ時代にある。

平成元年に16万人だった刑法犯検挙少年は、平成30年には2万3000人にまで急減しています。

「犯罪は増えていて凶悪化している」という誤解
京都産業大学

秋空の雲

田中槐『サンボリ酢ム』法律と短歌は殺意をどう言語化するか

二十歳(はたち)まであと何マイル? 落書きのやうだった夏休みの果てに(九月七日/遺体発見)

結句の「に」に戦慄を覚える。

少年に、あるいは少女にも、秋空は、ついに来なかった。

「二十歳」を、夏の魔雲が覆って、それを見通すことさえかなわなかった。

この連作の1首目はこうだ。

八月の終わりの胸のざわつきに十九歳(じふく)の夏が終わってしまう(八月二八日/事件発生)

「夏が終わってしまう」ことを、何もない青春を、ここではまだ惜しんでいた。

が、おおかたの若者が、だいたいは、こんなものではないのか。
自分の人生がいかに小さいか、「胸のざわつき」が伴って、だんだんだんだん見えてくる頃なのではないか。

そして、少年たちは、だからがんばる子とだからがんばらない子に二極化する。
少年は、その中で、殺人に手を染めた。
しかも、「くっ」とやり遂げてしまえた。

がんばることの、この変異が、愚かしくしかない一方で、ありていに言えば、自分を相対化できるコミュニケーションは得られなかったのか、あるいは、人との縁が薄いのであれば、書物に救済を求める契機は得られなかったのか、被害者にはむろんであるが、加害者にまで、そのあたりのことが、ただただ悔やまれてならない。

現代の若者に、「二十歳」とはかくも遠いものなのか。

だが、考えてみるがいい。
自問自答のくぐもった声で、結論を、あまりに性急に出してしまうことは、どの時代の若きにもある話ではないか。

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