野口あや子『かなしき玩具譚』「もう見捨てられたくなくて」

炎のようなめまい

もう見捨てられたくなくて「連作が書きたい」などと泣いてみるなり(風呂敷)

友達に励まされてはないているじぶんひとりじゃいきていけない(おしゃれキャット)

炎のようなめまいを覚える。

いずれも、野口あや子『かなしき玩具譚』(短歌研究社)からであるが、すでに一度、記事にしている。

当記事の姉妹編です

文学とは凄惨でないとなせないのか

野口あや子『かなしき玩具譚』「もう見捨てられたくなくて」

菜摘ひかるの『依存症』(主婦と生活社)という短編集がある。
文学史に残ったとは言えないが、風俗を生きる群像を描いて、この短編集は、この国の若い男女の闇を描いた傑作だった。

わたくし式守を、相当ヘロヘロにさせた。

執筆している最中は、はっきりいってヘドロの中を這いずるような精神状態でした。
(中略)
特に後半は、錯乱して大泣きしながら電話をかけるわたしの
(中略)
具体的には、情緒不安定→買い物病炸裂→過食(ここで通院)→とある出来事により抑うつ状態悪化→、寝たきり老人→拒食&希死念慮。
(中略)
だからこれからも、勝手に血ヘドを吐きながら勝手にカサブタ剥いてのたうち回る所存です。
(後略)

 菜摘ひかる『依存症』
(主婦と生活社)
(あとがき)より

菜摘ひかるは、これを最後に夭折した。

文学とは、こうも凄惨でないとなせないものなのか

言語の手腕それプラスアルファ

野口あや子『かなしき玩具譚』「もう見捨てられたくなくて」

三十秒で縫い上げられし薔薇刺繡街灯の下をあゆみはじめぬ(ミシン)

「街灯」が点く時間になって、「あゆみはじめ」るようだ。

「三十秒で縫い上げられ」たような「薔薇刺繡」をまとって。
と、わたしには、読めた。

上糸と下糸の間 断ちあげし布の一枚ゆらりと飛べり(同)

夜間になると<わたし>の実体を表現する。

「布の一枚ゆらりと飛」ぶように。とご自分を表現して。
と、わたしには、読めた。

人一人、言語の手腕だけでこうも迫るものを出せることが、式守に、ただただ不思議を覚える。

が、きっと不思議も何もないのだ。

何かがあったんだ。あるいは、何かを潜めたんだ。
それは、ありていに言えば、恐怖。
「恐怖」なんて一言に尽きるのではないか。

恐怖って何よ

どこに恐怖よ

そんなことは知らん

ただ、たった今は、恐怖と一体化しているかがうかがえて、それによって、ほんとうは他に言いたいことがあるのを、式守は、察知するのである。

夜は仮死していたい

野口あや子『かなしき玩具譚』「もう見捨てられたくなくて」

砕いてはゆっくりと嚥む硝子片 あなたのてくび あなたのねいき(睡眠薬)

夫か恋人かは知らないが、一夜をともに過ごす男性が寝ている横を、睡眠薬に頼る女性がこの世にはいるのである。

「幸福論(悦楽編)」のリピートのままにもうすぐあかい夜明けだ(同)

眠れないまま、<わたし>は、椎名林檎を聴くらしい。

あたしは君のメロディやその
哲学や言葉全てを守り通します
君が其処に生きているという事実だけで幸せなのです

『幸福論(悦楽編)』
作詞・椎名林檎

なるほど。
<わたし>の存在をそっくり認めてくれるのは、「あなた」よりも椎名林檎の存在だった。
こうなるとほとんど信仰に近い。

玄関の鍵を回して玄関に朝のひかりを突きさしている(同)

日中は身を隠すのである。

朝が来た。
帰宅したわけだ。
「玄関」を前に、寂然と風の音にくるまれる姿が目に見えるようだ。

『かなしき玩具譚』の<わたし>は、とにかくよくさまようのである。
さしあたり夜を生きている。

なぜ。
どこかに愛がないか。

あるいは……、

かなしみを乳房のようにまさぐり
かなしみをはなれたら死のうとしている

八木重吉『貧しき信徒』
(かなしみ)より

わたしの肉を分けてあげる

野口あや子『かなしき玩具譚』「もう見捨てられたくなくて」

耳を閉じたり耳を上げたりするように酸いも甘いも食べたいものを(おしゃれキャット)

と、詠むからには、そのように「食べ」てはいないようである。

これは、<わたし>を、猫に擬しての一首である。
この連作の1首目はこうだ。

耳の、痒み。そのすべからくかゆくなりかゆくなくなり主人は去りぬ(同)

人は食べなければ生きていけない。
猫だろうが、人間だろうが、女性だろうが、誰かの娘だろうが、食べる主体は、あくまで自分でしかない。

そんな簡単なことを、頭では分かっていてもできないままに長じる人がいるのである。

「わたしの肉を分けてあげるのに」
なんてことを言われてしまうほどからだを細くする。

「わたしの肉を分けてあげるのに」
とは、これはまた言いも言ったりで、内実は、キモチワリー、である。
要は、アブネー、である。

アブネー、
と思われてしまうまで羸瘦がすすむ人(ことに若い女性)がいるのである。

アブネー、
とは、からだが、ではない。はっきりと精神疾患としてである。

このような無神経な、愚行としか言いようのない外野を、わたしは、いくら憎んでも飽き足らないが、若い女性一人の命がかかっている。現実的にならねばならない。
人の口に戸は立てられない。

問題を隠す/隠された問題

しぼりきるマヨネーズから庭鳥の声がひびいて朝の赤茄子(ミシン)

サラダのマヨネーズにも敏感に反応してしまうのである。
マヨネーズの出現。激しい恐怖。

ああ
洗い流したい

食事のたのしさはこれでこわれる。

これで、家族を、周囲を、ぶっこわす。

言いたいことは他に

野口あや子『かなしき玩具譚』「もう見捨てられたくなくて」

「そこまではきないけれど」うらやましいひとりの頬をスクロールせり(携帯電話)

おやっ、
サラダにマヨネーズがあることひとつに過敏な子が、「ひとりの頬」のサイズを適正に認知しているではないか。

「庭鳥の声がひび」いてしまうまでの恐怖は、「マヨネーズ」を適正に認知できないからであるが、ここでは、「そこまではできない」と適正に認知したのである。

が、他の人であれば、げっそり、としか印象されないであろうそれを、「うらやましい」と。結局、ここでも、倒錯が伴っているのである。

されど、この凝視。
この凝視にこもる気はどうよ。岩にぶつかる風浪さながらではないか。

どうしたらいい

野口あや子『かなしき玩具譚』「もう見捨てられたくなくて」

だとしても、だめ

野口あや子『かなしき玩具譚』「もう見捨てられたくなくて」

剥げているペディキュアのぶん軽いからどこまでもいける だとしても、だめ(睡眠薬)

結句が、麗しい。
野口あや子の、これも、わたくし式守が愛している一首である。

しかし

「ペディキュアのぶん軽い」なんて思考回路からして、よしや歌人の一表現だとしても、人一人に備わっているなんて、とても健全の域とは言えまい

なるししずむ

野口あや子『かなしき玩具譚』「もう見捨てられたくなくて」

なるししずむというささやきよいつまでもじぶんのためにいきていきたい(おしゃれキャット)

逆に「いつまでもじぶんのためにいきて」はいけないことを明かしている。

されど、「なるししずむというささやきよ」の内省は、<わたし>の再生を保証していないだろうか。
現に、その後の<わたし>に、死は訪れなかったではないか。

「なるししずむ」か。
たとえば、唐突ではあるが、思い出の服なんてものを持ち出してみるのはどうか。
人によっては、そんなものは、ただの古着にすぎないのであるが……。

野口あや子はしかし、これを、それがただの古着でないことを、短歌で説得してしまえる人なのである。

ひいては、人生の惨苦を、「なるししずむ」なる内省に収斂してしまえる。

アブネー少女が死に至らなかったのである。
そして、まこと迫力のある短歌を、世に、送り出してきた。

いずれも、ご自分をご自分で苦しめてしまうものを「なるししずむ」に収められる力が源泉である、と思っても強弁にはなるまい。

ほんとうは憎しみがあることを知っている

野口あや子『かなしき玩具譚』「もう見捨てられたくなくて」

泣くときに涙袋を押しながら憎しみはおさえているのを知っている(マスカラ)

自身をかなしむ人があっても、ただそのままありがたく受け止められない。

なんと野口あや子にもこのような静かに読みくだす短歌があるのである。
(実はいくらでもあるが)

家で(自室で)ひとり息をつめているのであろうようすが痛ましい。

痛ましいが、でも、いいのか。
そんなこと言ってしまって、赤の他人が。

しかし、歌集の愛読者と歌集の<わたし>は、果たして赤の他人だろうか

母と娘

野口あや子『かなしき玩具譚』「もう見捨てられたくなくて」

読み返す。

泣くときに涙袋を押しながら憎しみはおさえているのを知っている

『かなしき玩具譚』の<わたし>の食における病で、ご自分をめぐる騒音が、当然のこととして、かまびすしくなった時のことは、いつまでも記憶から消していないに違いない。

めったなことを言うものでないのは百も承知であるが、「憎しみはおさえている」(と、<わたし>が眺めている)のは、母親か。

「泣く」なんてことを見せることからして<わたし>が悪者になっているではないか。
とは、<わたし>は、言わない。
言えない。

やめて
やめてよ

いつだってこうなる。
ずっとこうなるしかない相手だ。

負の自覚
くらいある
いけないと
わかってる

なぜこうなってしまったんだろう……。

こっちにも別の言挙げの立場はある。
が、そんなものが、この母に通じるものか。

そして、それは、世間様の理解を得られない。
ということを、<わたし>が、いちばんよくわかっている。

繰り返す。

泣くときに涙袋を押しながら憎しみはおさえているのを知っている

やめて
やめてよ

なぜ言えない。
母になぜそう言えない。

言いたいこと、説き伏せたいこと、母よりはるかに言語的才能が<わたし>にはあろうに、なぜ勝負をしない。できない。

そんなことをすれば血で血を洗う争いになる。

でも、ほんとうにそれだけか。

これだけは認めたくないが、どうやらそれは事実として、われは、母がこわくあるらしい。

なぜ。なぜ。なぜ。なぜこのあたしが母をこわがる。

そもではなぜあたしはちゃんと家にいる。
もうたくさんな母なのにちゃんと家に戻るのはまさかさびしいとや。

母が愛しいとや。母に愛されたいとや。

<わたし>はどこまでも、まことどこまでも無力だった。

どこまでも、まことどこまでもまだこどもでしかなかった。

行き場は見失われていた

野口あや子『かなしき玩具譚』「もう見捨てられたくなくて」

まず生きることだ

野口あや子『かなしき玩具譚』「もう見捨てられたくなくて」

ボールペンをすばやくもどす受付のひとを相手に会話していた(ギター)

スーパーのレジの人ではない。銀行のテラーでもない。
ああ、これは、クリニックの受付の人あたりだろうか。

「会話していた」ことを反芻するにおいて、「ボールペンをすばやくもど」していたことに、またチクリと胸が痛んだことだろう。

でもどうせ生きたいからだ バスタオルで包みさしだすわたしのからだ(風呂敷)

2句目の「からだ」と結句の「からだ」が、よそであれば戯れなところを、この一首は、切実である。

まず生きることを自覚的に決意したのだろう。
そのような決意として読めば、この一首は、わたくし式守に、眩しく、なによりここにみずみずしさを覚えられる。

再び自由に、そこで何の憂いもなく咲ける花となって、この世に存在していてほしい。

この歌人が、世の、食における病のある、一人でも多くの人に届くといい

届くことを、わたくし式守は、切に、切に祈る

<わたし>は、その人生に、一枚の鋭利な刃となって血の軌跡を走らせる。
あえない悔いに無力を覚える人を、それは、回向しておられるかである。

短歌研究社『かなしき玩具譚』の<わたし>は、
常、
わたくし式守に麗しい。

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