中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』人生に雪の白さが新しく

決意

星おちてさやかなる音聞きし夜のわれはひそかに鎖骨を守る(中畑智江)

書肆侃侃房
『同じ白さで雪は降りくる』
(ナナメノキ)より

中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』人生に雪の白さが新しく

星おちて

どこかに「星おちて」ではあるまい。今ここに流星を見た。
流星と言っても、それは、泣いていた、ということではないか。「さやかなる音」とは涙のことではないのか。

ひとり泣いた夜だった。

鎖骨を

では「鎖骨を守る」とは何よ。
古代中国で、囚人は、ここに、穴をあけられた。鎖骨の名の由来の一説である。
一説に過ぎないとしても、穴をあけられてはたまらない。そういうことでは。

被支配者になるまい。
被征服者になるまい。
そんなこんな。

措辞に沿ってそのまま読めばそのような歌意をとれないか

わたくし式守はそのように読んだのであるが……、

でも、それってなぜ?

満たされていないことを読み取れる歌がある

君という海をゆくとき一粒のさみしい貝であろうなわれは(a pain)

<偽り>に形を与えてみたところあなたの大事なわたしとなった(同)

なるほど、a pain

a pain

中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』人生に雪の白さが新しく

表札にとんぼ止まれば照りつつもこの家の姓に影を落とせり(どこにも属さぬ)

「この家の姓」と。

<わたし>に、旧姓というものがあろう。
夫婦別姓の問題にまで踏み込まないが、<わたし>に、嫁いだ先の姓を名乗ることの、痛恨の色調を、この一首に読めないか。

中畑智江の歌作の出発点に、まず「a pain」があって、このpainをいかに御すかの誓いが隠れているのではないか。

事実、誓いを立てた心情を詠んだものがあって

誓い

中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』人生に雪の白さが新しく

塩入れに「しお」と貼りつつ思うなり我はラベルを貼られたくなし(ナナメノキ)

「塩入れに「しお」と貼」るとの表現の、それはたとえば、どんなラベリング。

おまえってこうだよ、みたいな?

ちがう、ちがう、そんなことじゃない

手軽に模倣を許さない人間たらんとしておいでなのでは。
歌人として。実人生でも。

おまえってこうだよな的な、鋳型にはめられてしまうのも、もちろんごめんであろうが。

黒日傘あげて仰げば揺るぎなき夏空あれどわれは怯まず(同)

と,詠むからには、ほんとうは、怯んでしまいそうなのだろう。
たとえ日傘をさしていても、夏空に、怯んでしまいそうな何かの中を生きておいでなのではないか。

そんなことは知らん

ただ、歌人・中畑智江は既に、これからというものへの決意に出ている、それだけは確かな、この二首下句の調べは、わたしの胸を搏つ。

問題を設定する

中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』人生に雪の白さが新しく

正解が本にも空にもないという時間抱きてベンチに坐る(許し色)

そんな正解は誰も持っていない。持てるものでもなかろう。
自分だけの答え出すしかないのである。

<わたし>は「ベンチに坐」った。

ここに、歌人・中畑智江は、答えのない問題を設定した、と思われるのである。
ありていに言えば、
人生なんてことについてであるが。

たとえば
こんな

ゆく扉くる扉ありて人生の長い廊下にドングリの落つ(どこにも属さぬ)

玄関の扉は、その家に、一つである。
しかし、それは、物理的に一つなのであって、人生なる四次元世界では無数に存在していようか。

扉を出ると、そこに、ドングリが落ちている、と。
あ、ドングリ。子どもなら拾おう。が、大人は、どうか。拾うか。おおかたはいちいち拾わないだろう。

中畑智江たる<わたし>はどうか。拾うか。

拾うだろうな

これだ、と。
今こそ、と。

今こそ

中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』人生に雪の白さが新しく

的を射る刹那の音を思いたり自分の決めし時機はうつくし(形状記憶)

弓道の「的を射る刹那」を「自分の決めし時機はうつくし」と。
弓矢を放つとは的を狙ってのものであるが、なるほど、矢を放つタイミングを見定めていることでもあったか。
言われてみれば。

それは本人が決める。
っつうか本人しか決められないことだ。

人生という時間のたいせつなことが一つ見えた

未来でも過去でもあらず万物に<今>がいちばん力持ちおり(同)

母と子の時の速さ

中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』人生に雪の白さが新しく

その影の濃くて短き七月にゆんと伸びたる少年の丈(形状記憶)

<「ゆん」に傍点あり>

ふと気がつく。子の背丈が母の背丈と並んだ。
なに、精神的には、子はまだ、まして少年は、さして成長などしていないのであるが。

流さるるそうめんほどに儚くて子はこの永き夏を疲るる(同)

精神的にはさして成長していないのであるが、子は、そろそろ内省を育て始める。
だから疲れる。
だから口数が減る。

一様に手を振るような年頃を過ぎたる少年 修正ペン買う(a pain)

あった、あった、わたしにも、「一様に手を振るような年頃」が。
そのように表現されもしよう時代が。

でも

でも、おや、「修正ペン」を、と。

「一様に手を振る」から「修正ペン買う」までが須臾の如きにも覚えられる変化に驚嘆する。
母は子の時の速さに追いつけないのである。

すると

すると、こんな歌が生み出される。

おさな子は遠く駆けゆくわれのみが長き産後を生きているなり(ナナメノキ)

中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』人生に雪の白さが新しく

表札にとんぼ止まれば照りつつもこの家の姓に影を落とせり(どこにも属さぬ)

既に引用している一首である。
これもまた「a pain」であろうか、と。

「表札にとんぼ」は、「照りつつも」の措辞がこれを支えて、まことに美しい光景である。
美しいが、しかし、この美しさによってかえって、不穏な空気が、増幅されている。

もっとも憂いのないご家庭などどこにもなかろうが

この家のどこかが風に鳴っている図鑑の鳥が騒ぎ始める(同)

ほれ、
このように、何者にも邪魔されないように、家は営めないのである。

しかし

玄関に小さな靴は散らばって大きな靴を困らせている(ナナメノキ)

この「困らせている」との措辞こそ、中畑智江の短歌の、わたくし式守が愛する資質である。

とんぼによって美しい故の暗い影が生まれても、子に、まだまだ未来のあることを、「困らせている」の一言で見通せる。
中畑智江に、ひいては一読者のわたしにも、希望はまだある、との解釈をさせるのである。

よって

卓上に鍵を並べる 夕ぐれの鍵はそれぞれ疲れていたり(夕ぐれ図鑑)

家の鍵失くせば家を失くしたと同じことかな二丁目に雪(許し色)

鍵は家でわが身に戻る分身でもあった。
家を失ことはできない。そうはいかないと、雪は、<わたし>を諭すのであった。

雪が降ってきた
中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』人生に雪の白さが新しく

雪は、中畑智江に、その人生に、不可欠のものとして運命づけられている。

わたくしを温めるため沸かす湯はかつて雪なる記憶を持てり(しずかな叫び)

中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』人生に雪の白さが新しく

優しさが善玉菌を造るという説あり雪は窓に光れり(同じ白さで雪は降りくる)

<わたし>は、その「説」に、希望を託す。
雪に祈る。

お父さまがご入院らしい。

二月尽。父に借りたる雨傘は莫迦らしいほど真面目に展(ひら)く(同)

脳外科につづく廊下に並びたるすべての窓を雨が打ちおり(同)

<わたし>の姿は、父の傘を借りていることで、ふだんの生活圏から離れていることがうかがえる。

病棟の廊下の窓の雨であるが、これがもちろん実景であろうことが、わたしに、爪を噛んで読み進めるに至った。

やがてまた雪
中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』人生に雪の白さが新しく

生と死を量る二つの手のひらに同じ白さで雪は降りくる(同)

一夜にて街を真白にする力あれども雪は手のひらに消ゆ(同)

いずれも、わたくし式守が愛する「雪」の二首である。

その雪は、
「街を真白にする」のか、
あるいは、
「手のひらに消」えてしまうのか。

雪はもとより人の生死を決定しない。人の生死が視覚化されたものではない。
不謹慎なことこの上ないようで気がさすが、両の手のひらそれぞれの生と死の雪は、丁か半いずれかの博打なのである。

生と死を、<わたし>は、その結果がいずれになっても、決然とそれを受け入れるしかない。

人にそんなことができるか。
できる。
できる、と説得されるだけの短歌群があるのである、中畑智江の、この歌集は。

降りしきる雪を仰げばどの雪もわれに落ちくる雪と思えり(同)

十代だった雪の夜に、わたしは、母を亡くした。雪の降る夜はやはり、今も、こたえるものなのである。深閑として、物音は、雪のしとねに吸われる。

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