中畑智江の短歌/短歌内の構成を整理して幾通りも読んでみる

中畑智江の『同じ白さで雪は降りくる』は、いかにもおもしろい歌集だった。
難解な短歌はなかった。なかったが、いくらか、一つの読み方に着地しない短歌があって、こう考えるとこうなるが、こう考えればこうなると、わたしは、そのいくらかの短歌に没頭した。
幾通りもの読みができた。
幾通りにも読める短歌とは、でも、はたしていいことなのか。
幾通りにも読めたことで、わたくし式守は、まことに至福の時間を得られたが。

逆回転しているメリーゴーランドみたいな不安いつも抱えて(中畑智江)

書肆侃侃房
『同じ白さで雪は降りくる』
(あかるい雨)より

「逆回転しているメリーゴーランド」は、<わたし>が、中畑智江が、現実に乗ったことも、目にしたこともあるまい。いや、あるいは、ほんとうにあった出来事なのかも知れないが、それが実体験か否か、この一首の、どの措辞からも判定できない。
ただ、このような喩が生まれたことに、逆回転の有無はいずれであっても、メリーゴーランドを、乗ったか、目にしたことはあった。
たとえば結婚前の夫と。たとえばまだ子どもだったころに。メリーゴーランドは幸福を喚起するものだった。
しかし、ここでは「逆回転」と。「みたいな不安」と。ありていに言えば、中畑智江に、(短歌内の)現在の日々は、違和なく営まれていない。

子どもだったころに見た、あるいは乗ったメリーゴーランドは、華やいだ音楽の中で、シャンデリアをきらきら散らして回転していたのであろうが。

また、これもたとえば、であるが、ゆくゆく夫となる人と乗ったメリーゴーランドは、同じ軌道を同じ速度でともに回転していたであろう。

中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』は、夫がいる。また、子がある。

それぞれの幅で歩いて何周かのちに重なるだろう君とは(中畑智江)

書肆侃侃房
『同じ白さで雪は降りくる』
(a pain)より

ともに歩いているのであれば、「君」は、夫のことかと。
拙速ではあるまい。深読みもないかと。
が、ともに歩いている、と言えるか、夫婦がこれで。
「それぞれの幅で歩いて」いて、「重なる」ことは、「何周かのち」がせいぜい。「重な」っても、これでは、ほとんど偶然に近いではないか。夫婦なのに。
「重なる」のはいつ。算数に、この手の文章問題があるが。
このご夫婦の文章問題を解けたからとて、ご夫婦の解決に、直結することなどない。

されど、暴力といった、つまりDVの不遇はないようだ。
耐える価値のまったくない問題を抱えてはいない。「重なる」ことが稀であれば暴力に遭わない。
そこはまず重畳か。
また、「何周かのちに重なるだろう」との措辞。「君」への期待を失ってはいないことも。
夫婦たる者に、これを、わたしは、さしあたりたいせつな姿勢だとの考えを持つ。
「何周かのちに重なるだろう」関係でも、夫婦関係に、それは親子関係でも同じであろうが、家族の中にあって、絶望には至っていない。

紫陽花の辻を曲がれば「かたつむり」を歌う傘から子が現れる(中畑智江)

書肆侃侃房
『同じ白さで雪は降りくる』
(あかるい雨)より

この一首の、まず、「紫陽花の辻」のこと。
中畑智江に、「紫陽花の辻」は、次のような「辻」である

いじめっ子いじめられっ子いつの世もなくならなくて紫陽花の辻(中畑智江)

歌集『同じ白さで雪は降りくる』で、この二首は、並べて選ばれてある。
いじめについての深い諦念に縁どられて。

誰が誰に、なんて局所的なことではない、この世の、いじめ全般に黙っていられなかった歌なのか。

ご自分のこれまでのことを思ってか。
つまりいじめに遭ったことがあるのか。あるいは、いじめをしたことがある悔いか。

お子さんがいじめに遭っているのか。お子さんはいじめをしているのか。

いずれでもないが、子の母として、わが子が、いじめの輪にいるようなことはないでほしい歌なのか。

読み返す。

紫陽花の辻を曲がれば「かたつむり」を歌う傘から子が現れる(中畑智江)

でんでん むしむし かたつむり
おまえの あたまは どこにある
つの だせ やり だせ
めだま だせ

『かたつむり』作詞:不詳

「「かたつむり」を歌う」ような無垢な姿を見せられるからといって、いじめに無縁とは限らない。
子は、母をかなしませる報告は、かなしませることにつながることだけは避ける。いじめの、それも被害に遭っていれば、母に、それを告げることはできない。

もちろん「「かたつむり」を歌う」ことは、いじめに無縁でいられるからかも知れない。
それはある。

また、まだ幼くして、いじめの場にあるのに、泰然自若としていられる。
これもなくはないか。

子がひとりで傘をさしていたこと。「かたつむり」を歌っていたこと。
子の背景はわからない。が、どんな背景であっても、この子は、まことに愛しい。
そして、子をこのように育てた、母なる中畑智江もまた、傘をさす子の前にあって愛しい。

夏の子の肌着は早く乾くゆえ大きな気持ちになれるよ母は(中畑智江)

書肆侃侃房
『同じ白さで雪は降りくる』
(大きな気持ち)より

夏のあおい空の下で、子の肌着が、ひるがえっていた。
子の実体は、健康な肌がある。健康な肌は、夏の光を反射してもいよう。
ということも想起できる。
母なる中畑智江の生命に、「大きな気持ち」が、自然に根をおろしていることに、わたくし式守は、息をのんだ。

と、ここまで読んだところで、改めて、この一首を引く。

逆回転しているメリーゴーランドみたいな不安いつも抱えて(中畑智江)

わたくし式守は、次のような表を作成してみた。

〇……あり得る
✕……これはなかろう
家族自分も乗る自分は外
夫と
子と
夫と子と

一つの読み方に着地できなかったからである。
こう考えるとこうなるが、こう考えればこうなると、この一首は、ことに没頭した。
没頭して、さしあたりこのマトリックスに落ち着いた。

さて、「逆回転しているメリーゴーランドみたいな不安」であるが、この表の、いずれの場面か。

いずれの場面でも「逆回転しているメリーゴーランドみたいな不安」はあるのか。あるいは、場面によっては、「逆回転しているメリーゴーランドみたいな不安」は、回避されるものなのか。

子どもころに見た、華やいだ音楽とシャンデリアの赫燿の中で、メリーゴーランドは、いつしか止まった。

では、逆回転のメリーゴーランドは、いつかは止まるのか。止められるのか。

この稿はここで終える。