短歌ブーム/夢のような話であるが果たしてそれは本当なのか

ちょっとした短歌ブームなんだそうな。
短歌は簡単です、
と言われているのが目に留まることのよくある最近である。
「短歌はかんたん」とか「短歌はカンタン」なんて表記されて。
短歌の愛好者とすれば悪い話でもなかろうが、短歌が簡単だからブームになっている、とすれば、わたしには、遠い世界の話である。

わたしは、短歌を始めてからこっち、短歌を、簡単だ、と思ったことが、ただの一度もないのであるが。
簡単そうだ、と思ったこともない。
短歌を始めるにあたって、おもしろうそうだ、とは思った。
が、簡単なんじゃないか、とは思わなかった。

5・7・5・7・7を守ればいい。なるほど簡単かも知れない。
季語とか要らないんだよ、と。なるほど簡単かも知れない。
が、これって、ただのルールだ。
サッカーは手を使っちゃいけないことを知っているからとてサッカーは簡単ではない。
たしかに自作の短歌を発信できるツール、これは、この10年で、かつては考えられなかったほどに人を選ばなくなった。自作の短歌を発信するくらい気軽にできる世の中になった。
で、そもそもの、その短歌が、ルールはシンプルである、と。

たとえば新聞歌壇の掲載作品を読む。
達者なもんだなあ、となるわけである。何年たってもわたしの短歌はいくらも載らないなあ、となるのも飲みこめるのである。
5・7・5・7・7を守ればいい。季語とかは要らない。が、出来不出来は、人によってやはり差が出る。

あ、いや、わかる。
短歌は簡単である、との話は、そのような位相で問われてはいまい。
わたしもちょっと短歌を作ってみちゃいました、
とツイッター(現X)あたりで発信できる文化が生まれてきていますよ、と。まあそんな話と考えてみればいいのかと。
すてきなことだと思う。
日本語文化の、これも、立派な聚楽だと思う。

だとしても、やはりわたしに、そのような短歌は、遠い世界の短歌だ。
世に発信する以上は、わたしにおいては、これなら人の目に晒してもいいかな、とならないことには、自作の短歌を、とてものこと外には出せない。
自分で選んだ自分の歌を発信することはまだまだできない。わたしにはまだ、自分で選歌したものを、世に送り出せる自信がない。

カラオケは、歌が上手でないと、みんなの前で歌えない縛りなどない。
たとえ歌が上手と言えない人でも、歌いたい曲を歌いたいように歌ってたのしむ文化が、多くの国の社会に定着した。
でも、一方で、こんなこともないか。
YouTubeでアップされているアマチュアの歌は、プロを唸らせることができるかどうかは別の話として、やはりレベルが高い。ご自分がそれまで、歌唱力について、どのような評価を得てきたか、自己検証を経た上での、あれらは、本気度の高さがある。

わたしは、当サイトで、好きな歌人、好きな短歌を、こつこつこつこつ載せている。
なぜこっちはできる。
立派なものを世に出そう、などとこれっぽちも思っていないからである。自分に課しているハードルがない。ハードルが低い、と言っているのではない。ハードル自体がないのである。
歌人の〇〇さんの歌集『△△』が好きです。大好きです。
書評とは言えない。歌人論なんて大それたものでもない。
その歌人をどれだけ好きか、まっすぐに語ることを、ただ一つの道筋にしているだけである。
記事をアップすることに躊躇しようがない。羞恥心が枷とはならない。
もっともわたしの手によることで、その歌人を、その歌集を、安い物件にしていないか、なんて危惧は常にあるのであるが。

されば、わが短歌の実作も、このデンでいけばいい、と言えなくもない。
ネットどころか、歌集の出版を考えたっていい。自分で自分の歌を、そこで、選んでみればいいではないか、と。
だが、それはやはり、わたしにはできない話であろうか。
気の置けない仲間たちとカラオケで一曲歌うことさえできなければ、わが歌唱を、YouTubeで発信できるわけがない、というわけである。
あの人のカラオケは、わたしの魂を揺さぶってくれる、とは言えても、自分の歌を披露するには、それなりの覚悟ができてからにしないと、というわけである。

自分で自分の歌を選ぶステージに、では、いつ進める。
待つしかない。
死ぬまで、そんな意識に、至らないかも知れない。
その時はその時と肚を括るしかない。

短歌は、わたしに、かんたん、あるいはカンタンではないのである。

なお、ここに、短歌における、経済的制約や時間的制約については踏み込まなかった。
人さまの何を妬むと言って、その短歌が、あるいは歌集が、脚光を浴びていることではなく、仕事もあろう、家庭でのなんやかやももちろんあろうに、どうしてあれだけの歌作ができる。
まして歌集などなぜ出せる。

三ケ島嘉子が好きである。
次のような一首がある。

あさましく妬める我と思ふときすでにさびしきあきらめおぼゆ(三ケ島嘉子)

創元社『三ケ島嘉子歌集』
(大正十年/をりをりの歌・その二)より

私は今、かういふ歌を並べた歌集を出すことの苦痛に堪へます。

『三ケ島嘉子歌集』(後記)
「この集を編むまで」より

(後記)は橋本德壽による

枡野浩一さんが「かんたん短歌」を提唱されていますが、今さらわたしが補足することもない補足ではありましょうが、これ、短歌なんて簡単に作れますよ、と主張なさっておいでではあるまい。

簡単な言葉で、ついては読んですぐ理解できる歌を作ってみませんか、とのお考えで、短歌を始めたばかりの人には一読していいなあとなれない歌があることのアンチテーゼではあっても、これなら誰でも短歌が簡単に作れるでしょう、ほら、とは言っておられまいに。

毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである(枡野浩一)

これ、かんたんに(カンタンに)作れます?

氏には他にもよく知られた作品があるが、簡単な言葉なのに、でも、下句でぐっと盛り上がる、こんなまねが誰にだってできます?

言葉と言葉の結びつきの効果を熟知なさっておいでに違いない。

毎日のように
手紙は来る

手紙(名詞)毎日のように

あなた以外の

人(名詞)あなた以外の

その名詞に何が求められているか。緩急軽重。結果、<わたし>の解像度はいかほどか。

主の名詞に従たる措辞はどのような措辞が求められているか、一首全体の中で、枡野浩一さんは、最適な選択ができてしまうのではないか。

わたしにはできない。