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どのように生きたかなどと問はれれば八十歳の身には堪(こた)へる(久保田登)
ながらみ書房
『短歌往来』
2025年5月号
「窓を開ければ」より
2
年が明けて、来年、夏になれば、筆者も、62になる。
これがまったく実感がない。62という年齢であることに現実感がない。
加齢に伴って視力の低下や聴力の低下は相応にある。記憶力の低下に至っては恐怖を伴って不安がある。
立派に62なのである。が、その実は、背中のランドセルが重く、歯がぐらぐらしていた頃が一昨日くらいの時間経過の感覚しかない。
3
「どのように生きたかなどと問はれ」たとする。
ほんとうにそんな問いに遭えば、まず「生きてきた」なる言葉が耳に障ろうか。あとは死を待つだけみたいに言わないでくれないか、と。
そして、その問いに語れるものが何もないことに激しい後悔の念に駆られようか。現にたった今、“語れるものが何もない”ことに気がそわそわしてきたではないか。
4
読み返す。
どのように生きたかなどと問はれれば八十歳の身には堪(こた)へる(久保田登)
5
作者の久保田登さんは80歳。
筆者(わたくし式守)よりも混乱は深いか。
されど、歌人・久保田登さんには、式守より確かなものがある。
歌を詠める。
……?
まずい書き方だ。
ああ、式守操くん、きみも歌を詠む人だったんじゃないんですか。
そうだった。そうだった。
しかし、62になったが、そして、62に相応のからだになってきているが、でも、ここでどうにも現実感を持てないことを、わたしでは、歌にできない。
6
連作「窓を開ければ」にはこんな一首もある。
身構へて生きる歳月 もういいと心放てば草萌えてゐき(久保田登)
もうどうでもいいというお気持ちか。で、あとはお迎えを待つだけ、と。
そうじゃないな。
そうじゃない、と思うのである。
自分よりももっと大きなものへ視線をめぐらせてみたのではないか。
もっと大きなものとは何か。わからないが、自分の現在と未来にもう執着しない、とか。
「もういいと心放てば」とはたとえばそのようなことなのではないか。
「草萌えてゐ」た、と。ある覚悟を決めてみると、視界に、無碍の心が映し出された。
と、読めた。
久保田登たる<わたし>に、無縫の天はなおそのまま、と。
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